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鎌倉仏教

日本の鎌倉時代に興った新しい宗派の仏教を総称していうことが多いが、最近では旧仏教の復興も含めて鎌倉仏教と捉えるようになっている。新しい宗派としては浄土教系(念仏宗)の浄土宗、浄土真宗、時宗があり、中国からもたらされた禅宗に臨済宗と曹洞宗がある。また天台系の改革運動から日蓮宗が興った。奈良仏教や天台宗・真言宗など旧仏教の復興および改革も盛んで、新たに真言律宗が興っている。これらの新たな動きは、大きく捉えればそれまでの国家的な保護を受け、貴族が信仰する宗教であった仏教から、新興階級である武士、さらに庶民が信仰し、より実生活や地域に根付いた仏教に深化したと言うことができる。日本社会に仏教が深く根を下ろしたのは、鎌倉仏教からであった。

 インドに始まった仏教が、大きく二つの流派に分かれ、そのうちの大乗仏教が中国に伝わり、中国仏教として独自の発達と分派が進み、それらは唐や宋の時代に、次々と日本にもたらされて、日本仏教が形成されていった。そして日本文化に強い影響を及ぼしたが、それもまた世界史のなかでのことであった。
 日本の仏教の歴史のなかで、飛鳥・奈良時代からの南都仏教、平安時代の空海・最澄らの平安仏教に対し、鎌倉時代には革新的な新仏教が一斉に起こった。また、それに刺激されていわゆる旧仏教側にも復興、改革の動きが盛んになった。仏教はこの頃からそれまでの主に貴族の信仰の対象であった宗教から、武士や商人、農民などの広い階層に支持された宗教へと進化したと言うことができ、それらを総称して鎌倉仏教といっている。又言い換えれば、従来の貴族を対象とした経典の研究や鎮護国家の思想に対し、より個人の悟りや、社会の救済を目指した信仰として深まり、さらに鎌倉幕府が成立し、武士階級や庶民の成長という社会変動に対応した新しい仏教が鎌倉仏教であった。

鎌倉仏教の捉え方の変化

 かつて日本の仏教史で「鎌倉仏教」といえば、法然・親鸞・日蓮・栄西・道元・一遍ら個性的な「新仏教」の宗祖に光を当て、彼らの活動と彼らの興した宗派の興隆を論じることが主流であった。その捉え方では、旧仏教は否定され、衰退したものと受け取られることが多かった。しかし、1960年代に日本史研究の潮流が変わり、旧仏教とされる南都仏教や真言宗、天台宗は鎌倉時代に衰退するどころか依然として強い力を持ち、またその内部で新しい動きや改革運動が興っていたことが明らかになってきた。単純に比較することはできないが、それはキリスト教の歴史における宗教改革と反宗教改革の動きに似ているともいえる。

新仏教の勃興

 平安末期から鎌倉時代にかけて興ってきた新しい仏教には、念仏を第一とする浄土教系の浄土宗(法然が開祖)、浄土真宗(開祖は親鸞)、時宗(一遍が開祖)、法華経を根本に掲げる日蓮宗などに加え、当時のから伝えられた禅宗系の臨済宗と曹洞宗がある。
浄土教系 中国で広がった末法思想と、極楽への往生を願う浄土教の教えは、平安時代に源信らによって貴族社会に広がったが、平安末から鎌倉時代にかけて民衆にも定着していった。そこから興った浄土宗・浄土真宗・時宗はいずれも念仏によって阿弥陀仏の救済をうけ、極楽に往生するというわかりやすい教えであった。法然はさらに専修念仏(念仏をとなえるだけで救済される)ととなえて庶民にその教えを説き、親鸞はその教えを進めて信仰によって救済される(『教行信証』)のであるから、悪人でさえ往生できる(悪人正機説)とをとなえた。一遍は、踊りながら念仏を唱え、忘我の境地にはいることができると説いた。
禅宗系 禅宗は釈迦が静に瞑想して悟りを開いたということを継承し、荒行や戒律、念仏などの行ではなく、ひたすら静に坐して真理を得ようとする教えで、達磨によって始められ、唐の時代に独自に発展し、宋代に引き継がれていた。栄西は1168、1187年の2度、宋に渡り臨済宗を伝えたが、比叡山などの旧仏教の弾圧を受けたため鎌倉に向かい、鎌倉幕府の北条氏の保護を受けた。鎌倉に新政権を樹立した北条氏はこの新来の禅宗を保護し、多くの渡来僧を鎌倉に向かえた。北條時頼は蘭溪道隆を迎えて建長寺を創建、時宗は無学祖元を迎えて円覚寺を創建した。円覚寺は元寇での戦死者を弔うために創建されたとされている。臨済宗が幕府権力と結びついたのに対し、1223年から27年まで宋に滞在して曹洞宗を伝えた道元は、越前の山中に永平寺を建て、只管打坐(しかんたざ。ひたすら坐禅すること)の原則を貫いた。禅宗寺院、特に臨済宗は室町時代にも幕府権力と結びついて五山制度を作り上げると共に、禅宗と共に宋代に伝えられた儒学の新しい思想である宋学(朱子学)も受容し、五山文学というすぐれた漢詩文学が生まれた。一方の曹洞宗は道元没後、土着的信仰と結びつきながら民衆に浸透していく。
法華経系 日蓮は、安房の漁民の生まれとされるが、比叡山延暦寺で学んだ。法華経を教えの根本に据え、特に専修念仏の宗派を仏教から逸脱するものとしてはげしく論難した。鎌倉での説法は、しばしば念仏衆徒に襲撃され、幕府からも危険視された。さらに日蓮は鎌倉幕府に対して法華経を統治の理念とすることを提唱し、それ反することによって飢饉や天災が起こったり、外国の侵入が起こるなど国難が続くだろうと予測した。おりからの元寇(蒙古襲来)をその予言の的中と主張して幕府当局に迫ったが、その激しい他宗派批判(「真言亡国、禅天魔、念仏無限、律国賊」という四箇の格言を主張した)とともに危険視した幕府によって布教を禁じられ、佐渡に流罪となった。
旧仏教の復興 法相宗の解脱上人(貞慶)は戒律の復興に努め、宋から帰国した俊芿(しゅんじょう)は天台・真言・律・禅の諸宗兼学の道場として泉涌寺を創建した。高野山の明恵(高弁)は法華宗を復興させ、法然の念仏に強く反論した。最も注目すべきは戒律の復興と真言密教を融合させて真言律宗を始めた叡尊とその弟子の忍性であろう。彼らは道路の建設や貧者、病人の救済のための施設の建設など慈善事業を展開し、一時大きな勢力となった。このように、鎌倉時代の「律宗」は南都六宗の一つの律宗とは異なる、新仏教の一つと捉えることが正しい。
鎌倉仏教の共通する性格 これらの鎌倉仏教の主唱者たちに共通していることは、若いときに延暦寺で学んでいる僧が多く、彼らに共通する土台として天台宗の本覚思想があったことが指摘されている。
(引用)叡山の天台宗で院政期頃にはじまり、中世に発展した特徴ある思想を本覚思想とよぶ。「本覚」というのは、もともと『大乗起信論』という論書にみえる語で、衆生に内在する悟りの本性を意味する。この点で、仏性とか如来蔵などと類似するが、迷いの状態である不覚と、不覚からしだいに悟っていく始覚とセットになっている点に特徴がある。・・・
 狭義には「天台本覚思想」といわれるように、日本の天台宗において古代末期から近世初期にまでわたって主流を占めた一傾向、すなわち、・・・あるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想を指す。しかし、このような動向は天台宗のみにかぎらず、同じ時期の他の宗派にもみられ、さらにそれをさかのぼれば中国から日本の仏教のなかでしだいに発展してきたものである。<末木文美士(すえきふみひこ)『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』1996 新潮文庫 p.157/p.173>
 具体的な本覚思想には、例えば草木成仏論にみられが、これはインド仏教にはみられず、中国仏教から始まり、日本仏教でも次第に中心的な仏教思想となり、鎌倉仏教の成立にも大きな影響を与えた。それだけでなく、『徒然草』などの文芸や、能楽などの芸術にも強い影響を与えている。鎌倉時代の仏教は、旧仏教も、新たに興った宗派も、いずれも本覚思想を共通の土台としており、その意味では新仏教だけを鎌倉仏教として把握するのは誤っており、旧仏教の復興や改革も合わせて捉える必要がある。
官僧と遁世僧 最近提出されているユニークな見方として、鎌倉時代の僧侶には官僧と遁世僧の違いがあり、念仏宗、禅宗、律宗という新仏教の担い手となったのは遁世僧であった、というものがある。
(引用)中世の基本的な僧侶集団は官僧と遁世僧の二つに分けられる。官僧は、天皇から鎮護国家を祈る資格を認められた僧(尼)団のことである。そして、官僧は、天皇から得度(出家すること)を許可され、白衣(白袈裟)を基本的な制服とし、東大寺・観世音寺(太宰府)・延暦寺三戒壇のいずれかで受戒して、一人前となり僧位・僧官を有した。他方、禅僧・律僧・念仏僧・日蓮教団・明恵教団らは遁世僧とよばれる僧(尼)団である。すなわち、官僧身分から遁世した僧を核として成立した僧団で、在家信者を含む教団を形成した。そして、天皇とは無関係に得度し、教団独自の授戒をうけ、黒衣(黒っぽい袈裟、墨染の衣)を着して「個人」救済を行なった。もっとも遁世僧の方も、禅僧・律僧のように天皇(あるいは将軍)から鎮護国家を祈ることを求められる僧団もある。しかし、そうだからといって彼らが遁世僧でなくなったわけではない。そして、私見では、官僧が担ったのが旧仏教で、他方の遁世僧が担ったのが鎌倉新仏教である。<松尾剛次『中世都市鎌倉の風景』1993 吉川弘文館 p.85-86>

鎌倉仏教と西欧の宗教改革

 すでに近代日本の中世史学者原勝郎は「東西の宗教改革」の著書において、鎌倉新仏教が西洋における宗教改革の運動に対応するものとしてとられている。親鸞における信仰中心の立場、出家主義の否定、悪人正機説などはルターの信仰義認説や、カルヴァンの予定説を思い出させる。中世封建社会の形成期における鎌倉仏教と、中世の終末を告げる宗教改革を同一には論じられないが、両者を比較すると興味深い共通性がみられる。また一遍の踊念仏はスーフィズムを思い出させ、禅宗の曹洞宗が室町以降は密教や土俗信仰と結びついて大衆化していった動きはバクティ運動と似ているといえる。さらにいえば、念仏や坐禅を本来の仏教ではないと攻撃した日蓮の法華経中心主義は、イスラーム原理主義になぞらえることができるかもしれない。
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末木文美士
『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』
1996 新潮文庫

松尾剛次
『中世都市鎌倉の風景』
1993 吉川弘文館