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女真/女直

ツングース系の半農半狩猟民族。12世紀に金を建国して中国北半を支配したが元に滅ぼされる。次に17世紀初頭に急速に勢力を回復し、清を建国し全中国を支配した。

 ツングース系の諸部族はかつて渤海国を建てたが、10世紀以降は契丹のに支配されていた。その中の東部の松花江中流域で、半農半狩猟生活を送っていたのが女真(ジュルチンの漢訳)。遼では第7代の興宗の諱である宗真をさけるため女直と書いた。

日本にも現れた女真

 平安時代の中頃、1019年に九州の太宰府から、海を渡った賊船50艘が対馬・壱岐・博多湾に来襲したという知らせが朝廷に届いた。太宰権帥藤原隆家らが奮戦し、撃退することが出来た。これが日本史で言う「刀伊の入寇」のことであるが、刀伊とは中国北東部から北朝鮮の海岸部に活動する女真であった。しかし、当時の摂関政治の公卿たちはそれを知らなかった。

金の建国

 12世紀になって一族の完顔(ワンヤン)部の族長阿骨打(アグダ)によって統一され、1115年に隣接する遼と戦って勝ち、国号をとして即位した。さらに南下し、強大となった。彼らは遼で用いられていた契丹文字の影響を受け、漢字を元にして独自の女真文字を作って使用した。
 金は1125年には遼を滅ぼし、華北に侵入、さらに1127年には北宋を滅ぼし(靖康の変)、征服王朝として中国北半分を支配した。華北を支配した金は、二重統治体制をとって漢人を支配したが、漢人に重い負担をかけたこともあって次第に反発されるようになった。

モンゴルによる圧迫

 そのころ、モンゴル高原に興ったモンゴル人がチンギス=ハンに率いられて有力となり、南下して金を脅かすようになった。第二代オゴタイ1234年に金を滅ぼし、中国の華北を制圧した。それによって女真は本来の居住地であった東北方面に後退することとなった。後にこの地は満州といわれるようになる。

後金・清の建国

 その後、女真はに従属し、次いでの支配を受けた。明は満州方面に駐屯軍を置き、女真を建州女真、海西女真、野人女真の三部に分けて統治した。その中の建州女真が次第に勢力を強め、明から分離する動きを示し始めた。その族長アイシンギョロ氏のヌルハチは、次々と周辺の女真を制圧して統一に成功、1616年、ハン位につき国号を後金(アイシン)として自立した。1619年には明を破り、遼東地方(後の満州)を平定し、次のホンタイジの時、1636年に国号を中国風のに改称した。その後、1644年に明が李自成の乱で滅んだ後に、山海関を越えて中国本土に進出して全土を掌握、女真の建てた新王朝が征服王朝として中国を支配することとなった。

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