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大都

フビライが建設した元の都。戦国時代には燕京、金では中都といわれた。フビライは1264年にこの地を副都の一つとすることを宣言、1267年に遷都し、1272年に元の都として大都と改称した。マルコ=ポーロなども来訪。運河の通恵河で外洋と通じていた。明代・清代でも首都とされて中国最大の都市、現在の北京となる。

 モンゴル帝国(大モンゴル国)の大ハーンとなったフビライ=ハンは、1260年から同じく大ハーンを宣言したアリクブケと死闘を繰り返していたが、その間、開平府(後の上都)と燕京(後の大都)を拠点としていた。1264年にその戦いに勝利したフビライは、カラコルムから、燕京を正式に「中都」として開平府と共に首都の一つとする(両京制)と宣言、その東北に隣接して新たな都城の建設を開始し、1267年に遷都した。
 国号を中国風のに改めると、翌1272年、この新都城を大都大興府と改称した。中都はかつて燕京といわれ、戦国時代からの要地であり、の首都ともされた重要な位置にあったが、フビライの建設した新都の一部は旧市街と重なっているが中心は北東に移っており、まったく新しい都と言っていい。最終的に完成したのは1293年であったが、フビライはその翌年に死去した。
 元の都(複都の一つ)としての大都の城郭は当時、「周囲六十里十一門」といわれたが、実測では約28.6kmであったという。その南部中央に宮城がつくられ、市街は南北の街路で区画され、一区画は坊と言われた。

大都の特徴

 周礼に見られる古代中国の理想の中華式帝都として建設された。その設計は儒仏道の三教に通じた漢人があたった。壮大な帝都であったが、実はハンたちはほとんど大都の城内には入らず、郊外の野営地に壮大な天幕の宮殿ですごすのを好んだ。大都は「住む」ための都ではなく、統治に必要な人と物を収めておく「器」であった。最大の都市機能は、大都が内陸にありながら、なんど巨大な都市内港をもっていたことである。しかもその港は、通恵河を通じて通州に至り、そこから白河によって海港の直沽(現在の天津)で外洋に通じていた。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.30-34>

国際都市としての大都

 大都には多くの仏教寺院、チベット仏教の寺院、道教の道観、キリスト教の教会、イスラーム教のモスクが立ち並んでいた。現在も元時代の建物も見られる。また大都には、世界各地から使節や商人がやってきて、国際都市として繁栄した。ヨーロッパからやってきたマルコ=ポーロの『東方見聞録』では、大都はカン=バリク(ハンの都の意味)と言われて紹介されている。またモンテ=コルヴィノ、イスラーム教徒でモロッコ人のイヴン=バトゥータなどが西方から訪問している。<陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書>