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カルバラーの戦い

680年、シーア派のイマーム、フサインがウマイヤ朝軍に敗れた戦い。イラク南部のカルバラーは現在もシーア派の聖地とされている。

 イスラーム教団の正統カリフ時代、4代目カリフのアリーは、ムハンマドと同じハーシム家の出身で在り、その娘ファーティマの夫であったので、最も正統的な後継者として支持する者も多かった。しかし、ハーシム家と対立していたウマイヤ家出身の第3代カリフ・ウスマーンの暗殺の黒幕であるとみなされ、ウマイヤ家の後継者ムアーウィヤはアリーのカリフ位を認めず、自らカリフを称した。
 アリーはムアーウィア討伐の戦いを起こすが、ウマイヤ側の停戦の申し入れを受け入れた。それに不満で戦いを主張したハワーリジュ派によってアリーが暗殺されたため、ムアーウィアは唯一のカリフとなった。ムアーウィアが680年に息子のヤズィードにカリフ位を世襲させることにした。
 アリーの死後、アリーの血統の者のみをムハンマドの後継者で在り、教団の指導者イマームであるとする人びとは、その長子ハッサンを2代目イマーム、その弟のフサインを3代目のイマームとして擁し、シーア派を形成していた。
 フサイン680年、ウマイヤ家のカリフを認めず挙兵した。両者の戦いはバグダードの南約90キロの地点でのカルバラーの戦いとなったが、フサイン軍は敗北し、殺害された。ウマイヤ家はこの勝利によって、世襲王朝としてのウマイヤ朝の支配権を確立することとなった。
(引用)両者の戦いは、ヒジュラ暦61年ムハッラム月10日(西暦680年10月10日)におこなわれた。70余名のフサイン軍と4000のウマイヤ朝軍では、勝負の結果ははじめから明らかであった。しかもユーフラテス川への道を断たれたフサイン軍はひどい渇きに苦しんでいた。朝からはじまった戦いは昼過ぎには終わり、女・子供を残して、フサインとその従者は全員が殺された。フサインの首級はダマスクスへ送られ、首実検がすんでから40日後にカルバラーへもどされた。その遺体はフサインの血を吸い取った戦場に葬られ、やがてそこにはモスクが建ち、シーア派の人びとがお参りする聖なる墓所として現在に伝えられている。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.100>

Episode シーア派の奇祭、アーシュラー

 3代目イマームのフサインが、カルバラーの戦いで戦死した命日であるイスラーム暦ムハッラム月10日は、シーア派の信徒にとっては特別な日であり、いまでもアーシュラーという追悼祭が行われる。その日はフサインの殉教を悼む劇が上演され、信徒は涙を流し、さらに町に繰り出してフサインの痛みを体験するために自らの身に鎖を打ち付けて血を流しながら練り歩く。これはスンナ派にはない、シーア派独特の行事である。
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書籍案内

佐藤次高
『イスラーム世界の興隆』
世界の歴史 8
1997 中央公論新社