印刷 | 通常画面に戻る |

東ゴート人/東ゴート王国

ゲルマン人の一派であるゴート人が4世紀ごろまでに分裂、東ゴートは一時フン人の支配を受けたが、テオドリックに率いられて西方に移動してイタリアに入り、493年にオドアケルを倒して東ゴート王国を建国した。

 ゴート人はゲルマン人の一派で、東ゲルマンに属し、もとスカンディナビア半島のバルト海沿岸に居住していたが、2世紀頃、南下して黒海沿岸に移った。次第にローマ領を脅かすようになり、251年はローマのデキウス帝と戦い戦死させている。その後ローマ軍が優勢となり、4世紀の前半、コンスタンティヌス大帝はたびたび遠征してゴート族にローマに従う約束をさせた。4世紀の後半にはローマ帝国ウァレンス帝はゴート族がガリアの反乱を支援したことを理由に遠征軍を送り、369年に条約を結んで、ゴート族はドナウ河を渡河しないことを約束した。

ゴート人の分裂

 このころまでにゴート人は東西に分裂した。6世紀中ごろに書かれたヨルダヌスの『ゴート史』によれば、テルウィンギとグレウトゥンギという二集団に別れ、前者が西ゴート人、後者が東ゴート人となったとされ、グレウトゥンギ、つまり東ゴート人はアマルという王家が支配し、この王家から東ゴート王国のテオドリック大王が出たとされている。
 ただし、これらのゲルマン人の集団はギリシア語でエトノスといわれるが、現在の民族の概念には当てはまらない。現在の研究水準では、ゴート人はスカンディナビアにいたことは疑問視されており、現在のポーランドのポメラニア付近が現住地であり、黒海の北岸に移住したとされている。またその集団は固定的ではなく、西ゴート族、東ゴート族に分かれたというのも後の国家形成段階に意識されたに過ぎない。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.158-161>

東ゴート人の移動

 東ゴート人は370年ごろ、西進してきたフン人に征服され、その支配下に入り、西ゴート人はフン人から逃れて376年にドナウを超えてローマ領内に移住した。これがゲルマン人の大移動のはじまりとなった。その後、東ゴート人は、フン人の衰退に乗じて自立し、457年ごろ、東ローマ領のパンノニア(現ハンガリー)に移住した。

東ゴート王国 493年~555年

 東ゴート人を率いたテオドリック東ローマ帝国の要請を受けて北イタリアに入り、西ローマ帝国を滅ぼしてイタリアを支配ていたオドアケル493年に暗殺して、東ゴート王国を建国した。都はラヴェンナに置いた。
 その領域はほぼ全イタリアに及び、さらに西は南フランス、東は旧ユーゴスラヴィアに及び、フランク王国とならぶゲルマン諸国の大国となった。東ゴート王国は、征服者であるゲルマン人はローマ人に対して少数であり、またローマの高い文化を尊重したので、ローマ人とローマ文化を保護し、ローマ人にはローマ法を、ゲルマン人の軍隊にはゲルマン法を適用した。このように東ゴート王国はローマ化したゲルマン国家と言うことが出来る(ヴァンダル王国も同じような傾向があった)。
 しかし、東ゴート王国はアリウス派キリスト教を信仰していたため、ローマ教会とは結ぶことはなく、そのイタリア支配を完全にすることはできなかった。そのためテオドリック大王の死(526年)によって次第に衰退していった。

ゴート戦争 東ゴート王国の滅亡

 地中海世界支配の再現をめざした東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスヴァンダル王国を征服して自信を深め、535年、同じくベリサリウス将軍をイタリアに派遣した。東ローマ軍はシチリア、ナポリ、ローマを占領したが、東ゴート王国の執拗な攻撃に遭い苦戦が続いた。特に546年、ビザンツ軍が立てこもるローマに対して東ゴート軍が行った攻撃は悲惨を極めることとなった。一度窮地に陥れられた東ゴート族は、それまで対土地所有者に策されていたローマ農民に対し、土地を解放して味方にいれてローマ人貴族の経済的基盤をもぎとったうえで、東ゴート人とローマ下層民の連合軍を結成して15万の兵力とし、ローマを包囲攻撃したのだった。市内の貴族と市民は司教たちの和平工作に期待したが包囲は容易に解けず、食糧は不足、毒物の恐れがあるので水道は使えず、井戸を掘らなければならなかった。ユスティニアヌスの派遣したビザンツ帝国軍に従軍してローマに籠城したプロコピウスはその戦記に詳しく状況を伝えている。
(引用)市民は井戸ばたなどに生えている野草をあらそって奪い合う。ふん尿を食う。人肉を食う。餓死者は続出し、疫病がはやる。幼児をかかえてテヴェレの川に身を投げる者が続出する。中には夜陰に乗じて囲いを突破し、集団的に田舎に逃亡するものも出る。しかし田舎へ行っても凶作と荒廃のため、のたれ死にとなってしまう。これでは貴族も何もあったものではない。まさに地獄絵図そのままの状況である。こんなわけで、ローマの荒廃はその極に達し、人口は激減して、546年の暮に東ゴート軍が入城した時には、教会に避難した者を合わせて市民の総数はわずかに五百名であったと伝えられている。<増田四郎『ヨーロッパとはなにか』1967 岩波新書 p.121-122>
 ユスティニアヌスの派遣した東ローマ軍は、20年にわたる戦争の結果、ようやく555年に東ゴート王国を征服し、イタリア半島の支配を回復した。しかし、この「ゴート戦争(ゴート戦役)」はイタリアに壊滅的な被害をもたらし、土地は荒廃し、飢饉がさらに続いた。そのため、東ローマのイタリア支配継続することが出来ず、568年に始まるランゴバルド人の侵入によって東ローマ帝国支配は後退し、イタリア半島の政治的統一は再び崩れ、ローマ帝国の行政組織も解体されることとなる。

Episode 「ゴシック」の語源

 中世のキリスト教教会の建築様式であるゴシック式や、アルファベットの書体の一つであるゴシック(Gothic)は、「ゴート人風の」という意味である。この言葉には“無教養な”とか“野蛮な”という意味が込められている。東西に分かれていたゴート人であったが、いずれもローマに侵攻するなど、ローマ人にとってゲルマン人の代表格の部族とされており、後のルネサンス期の人々がゲルマン人の建築を“ゴート風”と蔑んだ言葉が起こりであった。18世紀になると美術史上の様式名として定着した。ゴシック書体はやはりゲルマン人の間で使われていた書体で、典雅なローマン書体(ラテン語を表記する)に対して無骨なものであったが、グーテンベルクの活字印刷でこの書体が用いられ、18世紀の印刷術の発展の中で一般的になった。