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西ゴート人/西ゴート王国

ゲルマン人の東ゲルマン系ゴート人が4世紀ごろまでに東西に分裂。西ゴートはドナウ河北岸にいたが、376年にドナウ川を越えてローマ領内に入り、バルカン半島に移動した。5世紀にはイタリアからさらにイベリア半島に移動し、その地に王国を建設した。

376年、ドナウ川を越える

 ゲルマン人の一派で、ビシゴートともいう。東ゴート人フン人に征服されたのを知った西ゴート人は、フン人を避けて、375年に移動を開始、376年に大挙してドナウ川を渡り、ローマ帝国領に移動し、その保護を求めた。これがゲルマン人の大移動のはじまりとなった。
注意 民族大移動の開始年 西ゴート人が移動を開始したのは375年なので、一般にこの年を民族大移動の始まった年として、ミナゴーと移動を開始したと年号をおぼえます。しかし、用語集や歴史書には、376年がその年となっていて、一年の差ですが気になります。これは、移動を開始したのが375年で、実際にドナウ川を越えてローマ帝国領に入ったのが翌376年ということです。

ドナウ渡河の事情

 370年代に入り東方からのフン人の侵入によって東ゴート(グレウトゥンギ)が征服されたことを知った西ゴート(テルウィンギ)人は恐慌に陥り、375年、はじめ西のカルパティア方面に避難した。さらにその地も危うくなったため、376年、アラウィス王はシリアのアンティオキアに滞在していたローマ皇帝ウァレンスに使者を送り、ドナウ川を越えてローマのトラキア地方に逃れることの許可を求めた。ゴート人はそれより前の369年にウァレンス帝とドナウ川を越えないことを約束していたからだ。ローマ軍への兵士の提供を条件に渡河を求めてきた西ゴート王に対し、ウァレンス帝はそれを許し、トラキアに土地を与えることを約束した。ウァレンス帝は、フン族についてはほとんど情報はなかったが、ゴート人をローマの兵力に加えることで有利になると判断したらしい。この時ドナウ川を渡河した西ゴート人の数は正確にはわからないが数万(3万5千から4万とも言われる)と推定され、特別に大規模だったとはいえない。

難民の怒りが歴史を作る

 トラキア地方の属州モエシアに入った西ゴート人を迎えたローマ軍司令官はいわば移民である彼らに「ひどい仕打ち」をした。食糧を提供せず、高値で買い取るよう迫り、渡河した人たちは飢えで苦しむ難民と化し、ローマに対する怒りがみなぎってきた。すると軍司令官は西ゴートの指導者をだまして宴会に招き、捕らえて人質にしようとした。難を逃れた指導者の一人が西ゴート人や続けて渡河してきた集団にローマに対する反抗を呼びかけるとたちまち大きな勢力となった。虐げられた難民の怒りが反ローマの戦いとなって、帝国の滅亡の始まりとなったわけで、何か現代にも通じる教訓になるようです。
アドリアノープルの戦い 西ゴート人を中心としたゲルマン人諸集団の反ローマ闘争はトラキア一帯に広がり、首都コンスタンティノープルを脅かした。皇帝ウァレンスはササン朝ペルシアとの戦いを早々に切り上げ、ゴート人の反乱の鎮圧に向かったが、378年8月9日、アドリアノープル付近の草原で反乱軍に遭遇、激戦となり、皇帝自身が矢で射られ、避難した小屋に火をかけられて焼き殺されてしまった。ローマ軍は決定的な打撃を受け、大敗北となった。これによって西ゴートらゲルマンの人々は二度とドナウの北に押し戻されることは無くなった。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.161-168>
ローマ=西ゴート同盟条約 西ゴートとローマのテオドシウスは、382年改めて同盟関係を結び、西ゴート人はドナウ河とバルカン山脈のあいだの属州地域に居住することが認められた。この条約では西ゴートはローマ軍への協力を約束したが、独自の軍隊組織と自治を認められ、ローマ帝国内に事実上の独立政権が出来上がったことを意味していた。このようなローマ帝国の弱体化を知った他のゲルマン諸部族は、その後相次いでローマ領内に乱入してくることとなる。

アリウス派の信仰

 キリスト教アリウス派ニケーア宗教会議で異端とされ、ローマ領内での布教が出来なくなった。4世紀の中ごろ、西ゴート人のウルフィラという人がコンスタンティノープルでアリウス派に改宗し、聖書のゴート語訳をつくってゴート人に布教したことから西ゴート人に信仰が広がった。ゲルマン人の土俗的信仰と結びついて西ゴート人に近い東ゲルマン系の間に広がった。
アラリック王 ローマ帝国の東西分裂した395年の前後、西ゴート人はアラリックに率いられて、たびたび東西ローマ領内に侵攻した。西ローマ帝国の将軍スティリコはアラリックと講和してその力を利用しようとしたが、宮廷内のゲルマン人排除の動きによって処刑され、アラリックはローマ攻撃を決意、410年ローマを占領し3日間にわたって掠奪した。しかし、ローマにはとどまらず、イタリア半島を南下、アフリカに渡ろうとしたが失敗し、北に引き返す途中アラリックは死去した。

Episode 西ゴート王の妻となったローマ皇女

 アラリックの後を継いだ義弟のアタウルフォ王は西ローマ皇帝ホノリウスの妹(テオドシウス帝の娘)ガラ=プラシディアを人質に取って、彼女を妻にしてローマ帝国を継承しようとした。アタウルフォはゴート人の前で「自分の力でローマの名前を消し去り、ローマ帝国のすべての領土をゴート王国と呼ばせてみせる。ローマの地がゴートの地になり、皇帝の代わりにアタウルフォが支配する」と、自分の野心を語ったという。しかし、彼は次第に信仰心の篤い妻プラシディアの説得や助言によって穏やかな性格になり、ローマの傭兵に甘んじるようになった。ところが皮肉にもアタウルフォが平和を求めたときに、彼は身内のゴート人のシヘリコによってバルセロナで暗殺されてしまった。415年に西ゴート王となったシヘリコは荒々しい性格で、プラシディアを侮辱し、その子どもを殺し、ローマの敵としてふるまった。しかし彼も他のゴート人の反感をかい、就任後わずか7日で殺された。
 代わって王となったバリアは、ガリア南部のトロサ(現在のトゥールーズ)に本拠を移し、西ローマ皇帝ホノリウスと和解し、ガラ=プラシディアを皇帝の許に返した。彼はホノリウス帝から418年に属州アキタニアの3分の2の土地の徴税権を与えられ、イベリア半島の他のゲルマン系部族であるヴァンダル人やスエビ人を討ち、勢力を半島に拡げた。追われたヴァンダル人は遠くアフリカに渡り王国を築き、スエビ人は半島北西部に退いてなおも抵抗を続けた。<鈴木康久『西ゴート王国の遺産』1996 中公新書 p.48-50>
 この西ゴート王アタウルフォの妻となったガラ=プラシディア(プラキディアとも)は夫と死別した後、西ローマ帝国の都ラヴェンナに帰り、兄に代わって帝国を治め、その地で生涯を終えた。彼女の墓が現在も残されておりビザンツ様式の建築、美術の最高傑作とされている。

西ゴート王国

ゲルマン人の一派である西ゴート人が、418年に南ガリアからイベリア半島にかけて支配した王国。6世紀、イベリアだけの王国となったがカトリックに改宗し、都トレドを中心に繁栄した。711年、ジブラルタルを渡って侵攻したイスラーム勢力によって滅ぼされた。

西ゴート王国

イベリア半島とガリア南部を支配 アラリックの死後、イタリア半島を北上してガリアに入り、西進して南ガリアを支配し、さらに415年にイベリア半島(イスパニア)に入り、ヴァンダル人を追い出して、418年にガリア南部(アキテーヌ地方)とイベリア半島北部を支配して西ゴート王国を建国した。都はトロサ(現在はフランスのトゥールーズ)。なお、ビシゴート王国という言い方もある。
 451年には、西ローマと協力してフン人のアッティラの侵入をカタラウヌムの戦いで撃退した。475年には、エウリコ王のもとでイベリア半島全域と南ガリアに統一的支配が及び、翌年西ローマ帝国が滅亡すると、「エウリコ法典」を制定してイベロ=ロマノ人(ローマ属州時代以来のラテン人)の統治にあたった。
ガリア南部をフランク王国に奪われる しかし、5世紀の終わりにはクローヴィスの改宗で「カトリック王」となったフランク王国クローヴィスが、カトリック教会とも結んでアリウス派の西ゴートに対する攻勢を開始、そのため507年、西ゴート王アラリック2世は南ガリアのアキテーヌ地方を放棄し、その領土はイベリア半島だけとなった。

トレドの繁栄

 西ゴート王国がイベリア半島だけの領土となったので、507年に、都をイベリア半島内陸のトレドに定めた。
カトリックに改宗 その後も西ゴート王国では王位を巡る争いが続き、安定しなかったが、586年、王位についたレカルド1世は国内のカトリック教会の要請を入れてカトリックに改宗した。征服者であるアリウス派の西ゴート人は少数で、住民の多くを占める先住民がカトリックであることがその統治を困難にしていると考え、自ら改宗して王国の安定をはかろうとしたものと思われる。
ヨーロッパの文化の中心となる それ以降、西ゴート王国の都トレドはイベリア半島のキリスト教文化の中心地として栄え、さらに8世紀以降、イスラーム圏に入ってからも、キリスト教世界から学者が多数訪れ、キリスト教文化とイスラーム文化の接点として、中世を通じて文化都市として発展した。イスラーム圏を通じて、中世ヨーロッパで忘れられていたギリシア文化も知られるようになり、トレドはヨーロッパにおけるイスラーム文化とギリシア文化に向けた窓として開かれ、新しい刺激が与えられることによって文化の中心であった。 → 12世紀ルネサンス
※「ゴート」ということばから「ゴシック式」や「ゴシック書体」という言葉が生まれたことは東ゴート人の項を参照。

キリスト教国家としての西ゴート王国

 西ゴート王国は国王がキリスト教カトリックに改宗して以降、その信仰をもとにした宗教的な国家となった。法律は宗教会議で制定され、教会法と国家法が渾然とした宗教国家となった。8世紀にイスラーム教が入ってくると、からなずしも両宗教は排他的ではなく、レコンキスタが活発になるまでは共存していた。しかし、一方でローマ支配時代から移住してきていたユダヤ教に対しては、次第に不寛容になっていった。 カトリックの宗教会議が何度も行われた

イスラーム勢力によって滅ぼされる

 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は、ウマイヤ朝の時期に急速に北アフリカのマグリブ地方を征服し、ついに711年、ジブラルタルを超えてイベリア半島に侵攻した。このイスラームの侵入を抑えることが出来ず、西ゴート王国は首都トレドが陥落して滅亡した。西ゴート王国の残存勢力はその後も抵抗を続けたが、この年を滅亡年とすることが多い(岩波世界史年表第3版では713年を滅亡年としている)。

西ゴート王国滅亡の背景

 西ゴート王国はゲルマン系ゴート人が支配階層であったが、ローマ時代からスペインに住むローマ人も多かった。また、多くのユダヤ人も居住していたが、王国はローマ=カトリックに帰依したのでユダヤ人に対する様々な弾圧を続け、ユダヤ人の不満も高まっていた。しかも西ゴート王国は王位継承を巡って内紛が続き、貴族も二派に別れて争う状態だった。
 710年に国王となったロデリック(スペイン語ではロドリーゴ)は、北部のバスク地方の反乱を鎮圧するため都トレドをあとにした。このとき、反ロデリック派の貴族たちは、北アフリカのイスラーム勢力の力を借りて都を制圧しようとしてウマイヤ朝のアフリカ総督に来援を要請した。ウマイヤ朝の総督は、現地のベルベル人であるターリク=ブン=ジヤードに西ゴート王国への侵攻を命じた。711年、ターリクはベルベル人を中心とする約7000人のイスラーム軍を率いてジブラルタル海峡を越え、イベリア半島に侵入した。
 西ゴート王国のロデリック王は急きょバスク地方から戻り、イスラーム軍と戦ったが、西ゴート貴族の中にイスラーム側に内通するものがあって、グアダレーテ河の戦いで敗北、ターリクの率いるイスラーム軍は北上して西ゴート王国の都トレドに入城した。
 翌712年、ウマイヤ朝のアフリカ総督は自らアラブ兵とベルベル兵から成るイスラーム軍を率いてアルヘシラスに上陸、西ゴート王国に反発していたユダヤ人の支援を得て、セビーリャ、メリダ、サラゴーザなどを攻略した。その後、グラナダ、バルセロナ、リスボンなど主要都市が次々の制圧されて、ピレネー山脈の一部を除くイベリア半島がイスラームの勢力圏に入った。
 このように、イスラーム教勢力がイベリア半島に入ったきっかけは、西ゴート王国に内紛があり、国王反対派からの支援要求に応えて出兵したことであった。

参考 西ゴート王国の遺産

 5世紀初めから7世紀初め、約300年に渡ってイベリア半島を支配した西ゴート王国は、現在のスペインにどのようなものを残しているのだろうか。イベリア半島の何層にもわたる歴史の層では、ローマ帝国支配の時代と7世紀から約800年続いたイスラーム支配の間にあって、忘れられがちであるが、次のような遺産が考えられる。
  • 都市トレド トレドは西ゴート王国の半島統治の中心であっただけでなく、中世のヨーロッパ文明で最も先進的な都市であった。今に残るゴシック建築の教会堂は、西ゴート時代のものではないが、ゴシック文化の要素を伝えている。
  • キリスト教国家 西ゴート王国はキリスト教カトリックを国教としてイベリア半島を統一的に支配した。これはレコンキスタによって追求され、15世紀に実現したスペイン王国の原型であり、近代のスペインに継承されている。
<鈴木康久『西ゴート王国の遺産』1996 中公新書>
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書籍案内

南川高志
『新・ローマ帝国衰亡史』
2013 岩波新書

鈴木康久
『西ゴート王国の遺産』
1996 中公新書