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辺境伯

フランク王国の地方行政官の一つ。周辺の異民族対策として設置され、神聖ローマ帝国では特に東方への拡張の際に重要な役割を果たした。オーストリアやブランデンブルク辺境伯がその代表。

 フランク王国および神聖ローマ帝国の地方行政官の一種。ドイツ語でマルクグラーフ(Markgraf)。マルクが「辺境」の意味。フランス語ではマルキ(Marquis)。国境地帯を防衛するために植民して設けたのがマルク(辺境区)で、その指揮官兼行政官が辺境伯。フランク王国のカール大帝は778年、ピレネー山脈を越えてイスラーム領に侵攻、エブロ川まで進出して辺境伯を置いた(そのときの話を題材にしたのが『ローランの歌』)。
 なお、マルキはフランスの爵位の一つ「侯爵」となる。マルキ=ド=サド(サド侯爵)のマルキである。また、世界史用語集で「辺境」を引くと、アメリカ合衆国の東部に広がっていたフロンティアのこととして出て来る。「辺境伯」については教科書記載は無いが、ヨーロッパ各国史の中で、ドイツの東方への拡大、オーストリアの出現と発展などを考える際には必要な用語である。

オットー1世の辺境伯設置

 フランク王国の分裂によって成立した東フランク王国のオットー1世は、当時の東の国境エルベ川の外側に辺境伯(マルク)を設け、有力な貴族を辺境伯として配してスラヴ人諸民族に備えた。この地域のスラブ系民族はヴェンデ人であった。東フランクの大公の一つである南方のバイエルンの東のドナウ川流域には「オストマルク」(東方の辺境の意味)を置いて、マジャール人に備えた。オットー1世は、この方面から侵攻したマジャール人とは、955年のレヒフェルトの戦いで勝利し、撃退した。

オストマルクとブランデンブルク辺境伯

 オットー1世に始まる神聖ローマ帝国においても辺境伯の官職はに引き継がれ、有力な諸侯に成長した者もあった。11~14世紀に活発になったドイツ人の東方植民の家庭でh、辺境伯の役割は大きくなった。ウィーンを中心とした「オストマルク」では、バーベンベルク家が辺境伯の地位を継承して、その家領から発展してオーストリアとなった。またエルベ川東側のノルトマルクには、1134年アスカニア家のアルブレヒト熊公が封じられてブランデンブルク辺境伯となった。ブランデンブルク辺境伯は後に神聖ローマ帝国の選帝侯の一人となり、さらにプロイセン公国と合同することで、後のドイツ国家形成の中心となる。
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