神聖ローマ帝国
962年、オットー1世の即位から始まるドイツ王を中心とした複合国家。古代のローマ帝国を再興した中世のカール大帝の西ローマ帝国を継承し、ローマカトリック教会のキリスト教世界を守護するという理念から、神聖ローマ帝国と言われる。その実態が成立するのは12世紀ごろとされる。16世紀にはハプスブルク家が皇帝位を独占して全盛期となり、ハプスブルク帝国とも言われる。17世紀の三十年戦争で実質的支配権を失い、1806年に消滅した。
神聖ローマ帝国の始まりは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などの撃退に成功したことから、ローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられたオットーの戴冠にあるとされているが、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは12世紀のことである。この国家は、便宜上、962年のオットーの皇帝即位に始まる中世ヨーロッパの国家を指しているが、実体はドイツ王が神聖ローマ皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。しかし最盛期の範囲はイギリス・フランスを除く西ヨーロッパに広がり、ローマ教皇に対抗する世俗の権力の頂点にあって中世から近世にいたる重要な政治的存在であった。16世紀にハプスブルク家が皇帝位を独占して最盛期を迎えハプスブルク帝国ともいわれる。しかし、宗教改革、フランスとのイタリア戦争、オスマン帝国の侵攻などが続き、17世紀の三十年戦争以降はその支配権は実質を失った。その神聖ローマ皇帝位はオーストリア=ハプスブルク家が継承してその後も続き、ナポレオン戦争で敗れて1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろした。
POINT「神聖ローマ帝国」の意味 「神聖」の意味 ローマ教皇との確執の中で、皇帝権が教皇からではなく、神から直接与えられたものであることを強調するものだった。<山本文彦『神聖ローマ帝国』2024 中公新書 p.7>
「ローマ帝国」の意味 実質的にはドイツ王であるが、古代ローマ帝国を継承するとされた。ローマ皇帝であるとすれば、ドイツだけでなくイタリアを支配しなければならないと固定観念から、歴代神聖ローマ皇帝はイタリア遠征(イタリア政策)を続けた。そのため、ドイツ統治は「疎か」になり、封建諸侯の跋扈を許した。
「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」への変更 ビザンツ帝国が存在する間は「ローマ帝国」は二つ並立する形だったが、1453年、ビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされたことが大きな衝撃となり、翌年の帝国会議でオスマン帝国の侵攻という危機のなかで国名を「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」とする議論がおこり、1486年からその国号が用いられるようになった。<山本文彦『同上書』p.7>
(1)成立とイタリア政策
最初から「神聖ローマ帝国」という国号が使われたわけではなく、初めは単に「帝国」または「ローマ帝国」といわれ、次いで1157年、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、皇帝の地位を教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるという意味で「神聖帝国」の国号を使い、大空位時代の1256年から「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire)が使われるようになった。この間の神聖ローマ帝国皇帝は、その名の通りイタリアへの関心を強く持ち、歴代の皇帝はいずれもイタリア政策と称して介入を続けた。そのため、ドイツ本土は皇帝の支配権は十分に及ばず、有力諸侯がそれぞれ領邦を形成した。
帝位の推移
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の帝位は諸侯による選挙で選出されるが、有力家系が続いて選出されることが多かった。しかしその家系が断絶して、新たな家系から皇帝が選ばれることもあった。東フランク王国以来のバイエルン、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、ザクセンの五大公国から成り立っており、これらの大公国はさらに多くの聖俗の領主が存在し、国王と大公、大公と諸侯はそれぞれ封建制度で結ばれた封建国家であった。ドイツ国王は大公などの有力諸侯によって選挙で選ばれ、アーヘンでマインツ大司教からドイツ国王として戴冠する慣わしだった。さらに962年にオットー1世がローマに赴き、ローマ教皇からローマ皇帝の冠を授けられたことが神聖ローマ帝国の始まりとされている。オットー1世以降もドイツ王兼ローマ皇帝は世襲されているが、形式的には諸侯会議で国王を選出し、帝国会議で皇帝を選出する仕組みになっている。神聖ローマ帝国ではおおよそ、オットー1世から始まったザクセン朝(オットー朝ともいう)(962~1024)――ザーリアー朝(ザリエル朝、フランケン朝ともいう)(1024~1125)――シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝ともいう)(1138~1254)――大空位時代(1254~1273)――ハプスブルク家・ナッサウ家・ルクセンブルク家・バイエルン家・ルクセンブルク家が交代した時代(1273-1330)――ルクセンブルク朝(1346-1437)――ハプスブルク朝(1438-1806)と続いた。
叙任権闘争の時代
神聖ローマ帝国では帝国教会政策をとり、皇帝が聖職者の叙任権をもつことで司教や大修道院を押さえてきていたが、それに対する教会側の反発が次第に強くなってきた。それは、11~12世紀に修道院運動のなかから教会改革の動きが高まり、聖職者の任命権は教皇を頂点とした教会側が持つべきだ、という叙任権闘争となって激しくなり、神聖ローマ帝国にとっては国内の諸侯の抗争と同時に苦難の時代となった。ザーリアー朝のローマ皇帝ハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世と対立し、1077年に「カノッサの屈辱」といわれる事件が起こったのもこの時期だった。皇帝と教皇の対立はドイツ内部の大公や諸侯の争いと結びついて、内乱状態となり、混乱が続き、ようやく1122年のヴォルムス協約で皇帝の聖職叙任権が形の上で否認されたことで終わりを告げた。
シュタウフェン朝
次のシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン)(1138~1254)では、フリードリヒ1世が積極的にイタリア政策を展開したが、12世紀にはイタリアで都市が勃興し、ロンバルディア都市同盟との戦いでは敗れている。しかし、婚姻関係によって両シチリア王国王位を孫のフリードリヒ2世が継承し、ドイツ南部とイタリア北部に加えてイタリア南部も支配し、ローマ教皇領を南北から挟撃する体制となった。パレルモのフリードリヒ2世の宮廷はドイツ文化とイタリア文化に、イスラーム文化の影響も加わった、開明的な宮廷文化が開花した。大空位時代
シュタウフェン朝の血統が途絶えたことによって、皇帝位の慶祥は混乱に陥り、1254~1273年の間、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)が実質的に空位になるという事態となった。この約20年間を大空位時代(1254~1273)いう。実際には空位ではなく、帝位についた者がいたが、いずれもドイツ人以外であったので、ドイツ史では「大空位時代」といっている。大空位時代の始まりを1256年とする場合もある。金印勅書
その後も帝位はハプスブルク家、ナッサウ家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハ(バイエルン)家などがめまぐるしく交替し、同時に二人が選出される(二重選挙)などもあって安定しなかった。ようやくルクセンブルク朝(1346~1437)のカール4世が1356年に金印勅書を定めて7選帝侯が固定された。1438年、ルクセンブルク家の断絶を受けた選挙によってハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されると、以後ハプスブルク家が帝位をほぼ独占して選ばれ続けることとなった。(2)神聖ローマ帝国 最盛期
15世紀以降、ハプスブルク家が帝位を独占的に継承し、ドイツ王、オーストリア大公を兼ね、婚姻政策によって神聖ローマ帝国以外にも支配領域を拡大していった。16世紀に最盛期となったが、同じころに宗教改革、イタリア戦争、オスマン帝国の侵攻などの危機も始まり、三十年戦争で新旧両派が争った後の1648年のウェストファリア条約でドイツ諸侯の実質的独立が確定し、神聖ローマ帝国の存在は形骸化した。
ハプスブルク朝の全盛期 16~17世紀
この間、代々の皇帝はローマで戴冠するのを慣わしとしたが、1508年のハプスブルク家のマクシミリアン1世からはローマには行かず、自ら皇帝を名乗り、正式国号も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と言われるようになる。1519年、皇帝に選出されたその孫カール5世は、本領のオーストリアの他、スペイン、ナポリ王国、ネーデルラントなどを領有(同時にスペイン王カルロス1世を号し、マドリードを本拠とした)し、またアメリカ新大陸などの海外領土を支配し、ハプスブルク帝国とも言われる全盛期を誇った。注意 神聖ローマ帝国とハプスブルク帝国の領土 神聖ローマ帝国はドイツと言われる地域の領邦国家の集合体であり、その範囲はほぼドイツ人の居住地域(現在のドイツよりは広く、ポーランド、チェコや北イタリアを含む)である。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝つまりドイツ王であるが、同時にブルゴーニュ(オランダやベルギーを含む)、スペイン(ポルトガルを含む)、ハンガリーなどを領有していた。さらにスペイン、ポルトガルが獲得した海外領土もハプスブルク家の所領となった。神聖ローマ帝国領はハプスブルク家領に含まれるが、そのすべてではない。
宗教改革・イタリア戦争・オスマン帝国の侵攻
1519年、皇帝に選出されたカール5世の時代はハプスブルク家の全盛期であったが、神聖ローマ帝国にとっては三つの大きな問題を抱えていた。その最大の問題は1517年に始まる宗教改革であり、帝国内ではルターを支持する封建諸侯が出現しただけでなく、農奴身分からの解放を求める農民戦争が勃発した。フランスのヴァロワ朝フランソワ1世は、ハプスブルク家にはさまれる形となったたためその打開を図って1521年に北イタリア・スペインに侵入、再びイタリア戦争が再燃した。さらに東方からはスレイマン1世に率いられたオスマン帝国が地中海方面だけではなくバルカン半島の内陸にも侵攻し、1529年にはウィーンを包囲(第1回)し、大きな脅威となった。カール5世はこれを撃退することに成功(ウィーンで戦ったのは弟のフェルディナント)し、ハプスブルク家の皇帝はヨーロッパ=キリスト教世界を守るという任務を果たした形となった。帝国内の新旧両教派の対立はシュマルカルデン戦争(1546年~47年)という宗教戦争に発展し、カール5世は旧教側に立つ原則を変えず、新教徒軍を屈服させたが、なお対立は続き、ようやく1555年のアウクスブルクの和議でルター派の信仰が認められて一応の終結を見た。また、カールの死後、フェリペ2世はイタリア戦争を1559年、カトー=カンブレジ条約で終結させた。ハプスブルク家の分裂
この広大な領土をひとりのハプスブルク家の当主が治めることは事実上不可能であった。この広大な領土を守るためにヨーロッパ各地、北アフリカまで転戦したカール5世は、領内の新教徒の抵抗もあって、統治の困難さを痛感したか、1556年みずから退位(引退は1555年)し、その家督を分け、子のフェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家と、弟のフェルディナント1世のオーストリア=ハプスブルク家とに分けた。神聖ローマ皇帝位はオーストリア王が継承することとなり、以後ウィーンが帝都となる。三十年戦争
17世紀にはいると神聖ローマ帝国の領土はイタリアやブルゴーニュの支配権を無くし、その領域はドイツに限られるようになった。また、国内の諸侯の自立の傾向は強まり、実質的に多くの領邦国家に分裂した。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は帝国内のベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)に対してカトリックの信仰を強要したが、1618年それに反発した新教徒がベーメンの反乱を起こすと、ヨーロッパの新旧両国が介入して、全ドイツを戦場とする三十年戦争が勃発した。その戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約はドイツ諸侯の主権を認めたため実質的に帝国は解体し、この条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われた。多民族国家化
その後、帝位はハプスブルク家が継承したが、実質はオーストリア帝国であり、チェコをその支配下においた。17世紀になるとオスマン帝国の弱体化に乗じて、その領土をハンガリー方面に進出させた。1683年、再びオスマン帝国軍にウィーンを包囲されたが、それを撃退し、さらにオスマン領に侵攻し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー全土を獲得した。オーストリアは東方への膨張傾向にあったが、ドイツ人以外に多くのスラヴ系住民(ポーランド人、チェック人、クロアチア人など)とハンガリー人(正確にはマジャール人)などの多民族国家という側面が強くなり、その後の国家運営ではこの民族問題で苦慮することになる。(3)神聖ローマ帝国 領邦対立の激化
18世紀には帝国内の領邦対立が激化し、戦争の時代となった。オーストリアはマリア=テレジアの継承問題で動揺し、代わってプロイセンが台頭、帝国の主導権を争った。ところがフランス革命の中から登場したナポレオンによる旧来の秩序の破壊はドイツにも及び、神聖ローマ帝国も動揺することとなった。
ハプスブルク家家督継承問題
18世紀、再びハプスブルク家は家督の相続問題が懸念された。カール6世に男子継承者が無かったからである。そこでカール6世はプラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書)を出し、ハプスブルク家の領土不可分と長子相続の原則、長子が死去した場合は女子にも相続権を与える、という相続原則を他の領邦諸国にも認めさせた。それによってカール6世の長女マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続したが、それに対してプロイセン国王フリードリヒ2世、バイエルン公、フランス国王ルイ15世などはその継承を認めず、オーストリア継承戦争(1740~48年)が起こり、帝位は一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世に移った。オーストリアは敗れ、プロイセンにシュレジェンの割譲を認めたが、マリア=テレジアの家督継承とその夫フランツ1世(ロートリンゲン公)の神聖ローマ皇帝は承認された。なお、これで男系ロートリンゲン家に移ったので、ハプスブルク=ロートリンゲン朝(1745~1806)と言う。外交革命と七年戦争
マリア=テレジアは神聖ローマ帝国の帝妃の立場であったが、夫フランツ1世に代わって実権を振るい、中央集権化と軍の強化に努め、宰相カウニッツの勧めに従ってフランスのブルボン家との提携に踏み切った。1756年5月、それまで常に対立してきたフランスとの間で同盟関係が成立したことを外交革命という。またマリア=テレジアはロシアとの提携も強めてプロイセンの孤立化を狙った。それを知ったプロイセンのフリードリヒ2世は再びオーストリアへの攻撃を開始、七年戦争(1756~63年)となった。プロイセンは苦戦したが、ロシアがプロイセン支持に転じたため勢いを取り戻し、フベルトゥスブルク条約で講和となった。その結果、プロイセンのシュレジェン領有が確定したが、マリア=テレジアの相続権も認められオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどの統治権を維持した。
啓蒙君主ヨーゼフ2世
この間、フランツ1世が死去し、マリア=テレジアとの間の息子ヨーゼフ2世が皇帝となった。オーストリア統治はマリア=テレジアとヨーゼフの共同統治であったが、マリア=テレジアの死により1780年からの10年間はヨーゼフ2世の単独統治となった。ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、宗教寛容令、農奴解放令などを発布して上からの改革を進めた。フランスとの提携はその後も継続され、マリア=テレジアの娘マリ=アントワネットをフランス国王ルイ16世に嫁がせた。フランス革命
神聖ローマ皇帝位を継承したマリ=アントワネットの兄のレオポルト2世は当初は啓蒙君主としてヨーゼフ2世の政策を継承したが、しかし、時代はフランス革命の激動に移ってゆき、オーストリア宮廷は反革命の姿勢を強め、ヨーゼフ2世の啓蒙政策はほぼ廃棄されて反動の時期に入った。レオポルト2世は1791年8月、ピルニッツ宣言を発して革命干渉に乗りだし、フランス革命政府は92年4月、対オーストリア開戦に踏み切り、フランス革命戦争が開始された。<菊池良生『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書 などによる>(4)神聖ローマ帝国の消滅
1806年、ナポレオンのライン同盟結成に伴い、神聖ローマ帝国は最終的に消滅した。
フランス革命とナポレオンの登場
神聖ローマ帝国を構成するオーストリア・プロイセンおよびドイツ諸侯はフランス革命軍との戦いを最初は優位に進め、フランス内に進攻したが、1792年9月のヴァルミーの戦いでプロイセン軍が敗れたあたりから形勢が逆転し、さらにフランス革命が進行しジャコバン独裁のもとで徴兵制が敷かれて国民軍が形成されるに従って、各地で押されていった。そして、フランス軍の指揮官としてナポレオンが登場し、そのイタリア遠征軍にオーストリア軍が敗北し、カンポ=フォルミオの和約で北イタリアから撤退するという事態となった。その後、ナポレオン戦争が全ヨーロッパに展開され、オーストリア軍など神聖ローマ帝国側は危機に陥った。神聖ローマ帝国の消滅
さらに皇帝となったナポレオンとの1805年にアウステルリッツの戦い(三帝会戦)でロシアとともに決定的な敗北を喫し、翌1806年、ナポレオンがライン川流域の諸侯を糾合してライン同盟(ライン連邦)を結成、ドイツ南西部の16の諸邦が神聖ローマ帝国を離脱した。それを受けて、ウィーンにいるハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国皇帝を退位し、ここに神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。オットー大帝の即位(962年)から数えれば、844年目にあたっていた。神聖ローマ帝国はすでに1648年のウェストファリア条約(「神聖ローマ帝国の死亡診断書」といわれた)によって実質的な国家機能を失い、プロイセンやオーストリアの二大国をはじめ、バイエルン、ハノーヴァーなどの領邦(ラント)が分立していたが、名目的な皇帝の地位はなおもハプスブルク家が継承し、この時期まで続いていた。なおフランツ2世はオーストリア帝国皇帝としては続いており、フランツ1世として宰相メッテルニヒに補佐され、オーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、北イタリアなど広大な領土を維持していくこととなる。