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フランク人/フランク王国

ゲルマン人の一部族でライン川と右岸からガリアに侵入し建国。481年にクローヴィスが正統派キリスト教に改宗してローマ=カトリック教会と結びついた。全盛期の8世紀末カール大帝の時代は現在のフランス、ドイツ、イタリアとその周辺にまたがる大帝国となり、のちの西ヨーロッパ世界となった。しかしその死後、帝国は三つに分裂した。

フランク人

 ライン川東岸にいたゲルマン人の一派のフランク人はゲルマン人の大移動の中で、5世紀に北ガリアに侵入した。フランク人はサリ族とリブアリ族という支族にわかれ、それぞれ『サリカ法典』、『リブアリ法典』というラテン語で書かれた部族の規則をもっていた。

フランク王国の建国 481年

 481年、フランク人のサリ族のメロヴィング家のクローヴィスがフランク人の各部族を統一、ガリア(後のフランス)北部にフランク王国を建国した。これがメロヴィング朝の始まりである。

メロヴィング朝 481年~751年

 メロヴィング朝のフランク王国は、他のゲルマン諸民族がアリウス派のキリスト教を受け入れたの対し、496年クローヴィスが改宗してアタナシウス派に帰依し、ローマ=カトリック教会と関係を深めてから、急速に勢いを増していった。534年にはブルグンド王国を滅ぼしてガリアを統一した。
 しかし、メロヴィング朝はゲルマン人の分割相続制を継承していたので、551年のクローヴィスの死以後はその子や孫の間で王国は分割され、6世紀後半には、東北部(アウストラシア、中心都市はメッス)、中西部(ネウストリア、中心都市はパリ)、東部(ブルグンド、中心都市はオルレアン)の三分国が成立、南部(アクイタニア)は三分国の共同管理下に置かれた。
6世紀の地中海世界 フランク王国が西ヨーロッパ北部一帯に勢力を広げたころ、地中海世界では、ユスティニアヌス帝時代の東ローマ帝国が再統一に乗り出し、彼の派遣した軍隊はイタリア半島では555年東ゴート王国を征服し、北アフリカではヴァンダル王国を滅ぼした。しかし東ローマ帝国の地中海支配は長続きせず、568年にはドナウ流域から移動してきたゲルマン人の一派がイタリアに入り、ランゴバルド王国を建設した。
7世紀の地中海世界 さらに7世紀になると、西アジアの一角に凝ったイスラーム教の勢力が、地中海世界に進出してきた。622年にムハンマドが聖遷をなしとげ、670年代にはウマイヤ朝がコンスタンティノープルを攻撃、アフリカ北岸を西進し697年にはカルタゴを征服、その勢はイベリア半島を脅かすようになった。
メロヴィング朝の内乱と統一 6~7世紀、フランク王国はクローヴィス後に分国に分裂して内乱が続く中、各分国では一斉に豪族が割拠するようになった。
(引用)「ニーベルンゲンの歌」に伝説化された王妃ブリュンヒルドは、これら豪族の分立傾向を抑えて専制的王権の回復をはかったメロヴィング王家の記憶である。けっきょく、ネウストリアのクロタール2世が、メッツ司教アルヌルフと豪族ピピンの家計を中心とするアウストラシアの豪族群の支持をうけて三分国を統一し、王国経営の方向を決定した。つまりはアウストラシアにとりわけ強い豪族の分立主義の勝利であり、ゲルマン的社会経済の選択である。フランク王国は、こののち南ガリア的原理(ローマ的体制)をすて、北ヨーロッパ的な政治・社会のありようをさがし求めてゆくことになる。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.66-67>
 通説では、地中海をイスラーム勢力に抑えられたため、フランク王国は南ガリア(南フランス)に進出できなかったとされているが、ここではその理由を、フランク王国が北ガリアにゲルマン国家を建設する志向が強かったからだと説明している。
宮宰カロリング家の登場 7世紀前半、ネウストリア分国のクロタール2世はフランク王国の統一を回復しようとして、各分国に宮宰(マヨル=ドムス)の職を置いた。その中のアウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン(2世)は、ネウストリア分国の宮宰エブロインとの争いに勝利、二分国の宮宰の職を兼ね、フランク王国の実権を掌握した。それ以後の国王は怠惰、無能なものが多かったが、メロヴィング王権は伝統的な権威をなおも半世紀ほど存続する。
カール=マルテル ピピン2世の次にその子のカール=マルテルが全王国の宮宰(マヨル=ドムス)を掌握した。彼は軍団を率いて各地を転戦、バイエルンを服従させ、さらに周辺のアラマン族、ザクセン族、アキテーヌ公などを服属させた。このころイベリア半島を制圧したイスラーム軍は、アブドゥル=ラフマンに率いられ、732年にピレネーを超えてアキテーヌ地方のバイヨンヌやボルドーを略奪、さらに北上してきた。
トゥール・ポワティエ間の戦い 732年イスラームの侵入を受けたアキテーヌ公の要請により、カール=マルテルは動員令を出した。オルレアンでロワール川を渡ってポワティエに向かい、両軍は7日の間対峙した。このトゥール・ポワティエ間の戦いで、フランク王国の重装歩兵勢が、イスラーム軍の騎馬隊を潰走させ、アブドゥル=ラフマンは敗死した。

カロリング朝 751年~987年

 カール=マルテルの子ピピン(小ピピン)が751年に王位に就き、カロリング朝を創始した。同年、北イタリアに入ったランゴバルド人ラヴェンナを占領したため、そこにあったビザンツ帝国の総督府は廃止となり、ローマ教会は新たな保護者が必要となった。
 754年ローマ教皇ステファヌス2世は、カロリング朝フランク王国のピピンの王位を承認、ローマ教会によって聖別される国とした。このことはフランク王国にローマ教会を保護する役割が与えられたことを意味する。その期待に応えてピピンは北イタリアに兵を進め、756年ランゴバルド王国からラヴェンナを奪回してローマ教皇に寄進した。この「ピピンの寄進」は、最初のローマ教皇領となったのであり、ローマ教会はフランク王国という後ろ盾と同時に経済的基盤をえたこととなり、ビザンツ帝国および東方教会に対して優位に立つことが可能となった。

カール大帝

 フランク王国は次のカール大帝の時代に全盛期を迎えた。カールは774年に北イタリアに侵攻してランゴバルド王国を滅ぼし、800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられ(カールの戴冠)、ローマ教会の保護者としてキリスト教世界の中の権威を獲得、同時に西ヨーロッパ全域を支配する王国の王権を獲得した。
 カール大帝は現在のフランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・北イタリアを合わせた地域に加えて、東方ではハンガリーに侵入したアヴァール人を撃退し、イベリア半島ではイスラーム勢力と戦った。その支配は現在の西ヨーロッパ世界と同じ広範囲におよび、アーヘンの宮廷にはイギリスから神学者アルクィンを招くなど、カロリング=ルネサンスと言われる古典文明の復興に努めた。しかし、地中海はイスラーム勢力によって抑えられたため遠隔地貿易は行われなくなり、貨幣経済も衰えて農業生産を基盤とした封建社会が始まることとなった。

フランク王国の分裂

 封建制度のもとにあったフランク王国は統一性が弱く、カール大帝の死後は分割相続というゲルマン社会の相続制度もあって、その領土は843年ヴェルダン条約870年メルセン条約をへて東フランク西フランク、イタリアの三国に分割され、それぞれが後のフランスドイツイタリアの起源となる。カロリング家の王位は三国で世襲が続いたが、まずイタリアで875年に断絶し、次いで東フランクでは911年、西フランクでは987年にそれぞれ断絶した。