ラテン帝国
13世紀初め、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国。
1204年4月、コンスタンティノープルを占領した十字軍(第4回)が建設した国。この十字軍の主体はヴェネツィア共和国であったので、ラテン帝国はフランドル伯ボードワンを皇帝としていたが、実質はヴェネティアの植民地であったともいえる。またこれによってビザンツ帝国は一時コンスタンティノープルから追い出されて亡命政権を建てざるを得なくなり、滅亡の危機に陥った。
ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。1261年、ニケーア帝国のミカエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝が存続する。
インノケンティウス3世は征服者たちに東方教会のラテン化を命じ、枢機卿ペラギウスを派遣した。征服者はその意図を受け、コンスタンティノープル総主教をはじめ全ギリシア主教の廃位を決定し、当地の教会や修道院の財産を没収した。さらに東方教会の信徒に対してはローマ教会の信条(三位一体説を一部改変したもの)を強要した。これによってキリスト教会の東西分裂は既成事実として決定的になった。
ラテン帝国のコンスタンティノープル支配
第4回十字軍はラテン帝国を建てただけでなく、イタリアのモントフェラート侯はテサロニキ王国、フランス貴族ヴィラルドゥアンのアカイア公国など、ラテン系の国家を周辺に作った。ラテン帝国の皇帝ボードワンはビザンツ帝国に代わる大帝国をもくろんだが、1205年4月、アドリアノープルの戦いでブルガリア帝国軍と戦い、行方不明となり、コンスタンティノープル周辺を支配するのみとなった。なお、ビザンツ帝国の遺臣は、その周辺に亡命政権を建て、コンスタンティノープル奪回をねらった。その中では小アジア西部のニケーア帝国、東北部のトレビゾンド、西ギリシアのエピロスなどがあった。ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。1261年、ニケーア帝国のミカエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝が存続する。
教会の東西対立、決定的に
第4回十字軍を提唱したローマ教皇インノケンティウス3世は、コンスタンティノープル占領の際の十字軍の残虐行為を聞いて激怒し、破門に処した。しかし、ラテン帝国が建国されたことで、東西教会の統一の機会が生まれたことは都合がよかったので破門を取り消して十字軍の称賛に転じた。インノケンティウス3世は征服者たちに東方教会のラテン化を命じ、枢機卿ペラギウスを派遣した。征服者はその意図を受け、コンスタンティノープル総主教をはじめ全ギリシア主教の廃位を決定し、当地の教会や修道院の財産を没収した。さらに東方教会の信徒に対してはローマ教会の信条(三位一体説を一部改変したもの)を強要した。これによってキリスト教会の東西分裂は既成事実として決定的になった。
Episode 異端者か殉教者か
ラテン帝国は、東方教会の信徒に対し、ローマ教会の信条を強要したが、その中で東西教会の対立を決定的にした一つの悲劇が起こった。(引用)そうした中、聖山アトスの十三人の修道士たちがこれ(ローマ教会の信条をとなえること)を拒否したため、(ローマ教会が派遣した)ペラギウスの監督のもとに処刑されるという痛ましい事件が起きた。この十三名は、ラテン教会からは異端者として、東方教会からは殉教者として殺された。東西亀裂の深刻さはここに極まる。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.179>