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マンジケルトの戦い/マラーズギルドの戦い

1071年、セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。小アジア(アナトリア)のトルコ化の端緒となり、ビザンツ皇帝の十字軍派遣要請の要因となった。

 マンジケルトはマラーズギルドとも言い、アナトリア(小アジア)東部の現在のトルコとシリア、イラク国境のヴァン湖に近いところ。1055年にバグダードに入った遊牧トルコ人セルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ帝国領のアナトリア(小アジア)に侵入した。1071年、ビザンツ皇帝ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、マンジケルト(マラーズギルド)の戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。

セルジューク朝とビザンツ帝国の決戦

 遊牧トルコ人の建国したセルジューク朝は中央アジアから西アジアに進出し、1055年にバグダードを攻略、カリフから世俗の支配権であるスルタンの地位を与えられ、イスラーム世界の兵馬の権を握った。セルジューク朝は約200年ぶりにキリスト教圏に対する聖戦を開始し、アルメニアに進出、さらに小アジア(アナトリア)に迫った。
 軍人皇帝であったビザンツ皇帝ロマノス4世は、1071年春、ノルマン人などの傭兵を含む約10万の兵を率いて、アルメニアを奪回すべく出兵した。セルジューク朝側は第2代スルタンのアルプ=アルスラーン(「たくましい獅子」と言われた)が率いており、両軍はヴァン湖の北のマンジケルト(マラーズギルド)で遭遇、8月19日に会戦となった。

Epidode 敗軍の皇帝の末路

 決戦の日、ロマノス帝は幕僚たちに裏切られた。彼はひとにぎりの忠臣と孤立して、あくまでも勇敢に戦い抜いたが、馬は殺され、みずからも傷つくありさまで、ついには囚われの身をアルプ=アルスラーンの前に引き立てられた。スルタンは敗軍の将を手厚くもてなした。それがひとたび釈放されると、ビザンツ帝国の連中は、政治的な憎悪心に駆られて、皇帝の両眼をくりぬいてしまう。<ルネ=グルッセ/橘西路訳『十字軍』1970 角川文庫 p.8>

小アジアのトルコ化

 これによって小アジアのトルコ化が始まった。ビザンツ帝国側では将軍たちが帝位を争って対立しており、その一部にはセルジューク朝に同盟を呼びかけるといった状態で、1078年にはマルマラ海のコンスタンティノープルの対岸であるニケーアをセルジューク朝に与えてしまった。そのようなことから、ほぼ十年で小アジアの4分の3はセルジューク朝の支配下に入った。セルジューク朝軍は1071年にはイェルサレムを占領し、小アジアのニケーアに1077年、トルコ人の地方政権ルーム=セルジューク朝が成立した。さらに1084年にはアンティオキアを奪回した。
 このようにビザンツ領は浸食されていったことが、ビザンツ帝国のローマ教会への十字軍派遣要請の要因となった。なお、同じ1071年、ビザンツ帝国領の南イタリアでは最後の拠点バーリをノルマン人に奪われており、ビザンツ帝国は東西で領土を縮小させることになった。

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ルネ・グルッセ
橋口倫介訳
『十字軍』
1991 文庫クセジュ