イヴァン3世
モスクワ大公国の大公。ビザンツ皇帝の姪を妃とし初めてツァーリを名乗り、ロシアの統合を進め、1480年、キプチャク=ハン国の支配「タタールのくびき」から脱しモンゴル人の支配を終わらせ、ロシアの基盤をつくった。
1462年、モスクワ大公国の大公として即位。分裂していたロシアを統一し、「タタールのくびき」を終わらせ、農奴制支配を確立させた。ロシアの独立とヨーロッパ東方の強国に育つ基盤をつくった。
ビザンツ皇帝の権威を継承
イヴァン3世がモスクワ大公として力を蓄え、ロシア国家統合に成功しするのには、ビザンツ帝国皇帝の権威を継承したことが重要だった。ビザンツ帝国の滅亡はすでに1453年のことであったが、ロシア人の中のモスクワで台頭した地方勢力に過ぎなかったイヴァン3世は、1472年、ビザンチン最後の皇帝の姪ソフィア(ゾエ)を妃にすることができた。これによってロシアは、事実上ビザンツ帝国の後継者となり、帝国の双頭の鷲の紋章を受け継いで「ローマ帝国の皇帝」を継承することとなった。またイヴァン3世は自らツァーリを名乗った。これはローマのカエサルを語源として皇帝を意味していた。ただし、それは正式なものではなく、一般的には彼は「全ルーシの大公(または主)」と称した。なお、「ロシア」という言葉は15世紀の末に初めて文献に現れる。またツァーリが正式に皇帝を意味する称号として用いられるのはイヴァン4世からである。イヴァン3世の事績
- 1471年にはノヴゴロドを併合して統一を完成させた。当時ノブゴロドは都市共和国としてモスクワ公国の支配が及んでいなかったが、イヴァン3世は軍事力で同市を屈服させ、ノヴゴロドの自治の象徴であった民会の鐘をモスクワに持ち去った。
- キプチャク=ハン国軍を破って「タタールのくびき」を終わらせた。1480年、イヴァン3世はキプチャク=ハン国の貢納請求書を破り捨てた。それに対して、モスクワ公国を討つために大軍を北上させたキプチャク=ハン国のアフメト=ハンは、ウグラ川で対峙したイヴァン3世軍の偉容を見て、戦わずして引き揚げ、ここに「タタールのくびき」は終わった。
- 大貴族会議(バヤールスカヤ=ドゥーマ)を招集した。しかしイヴァン3世の政治は、実際には大公の統治の事務処理に当たる書記官と、地方に派遣される代官によって支えられていた。
- 1497年に法典を制定し、農民の自由な移転の権利を奪い、秋の「ユーリーの日」(11月26日)の前後二週間のみ、移動を許した。農奴制が強化された言える。 <和田春樹『ロシア・ソ連』地域からの世界史11 1993 朝日新聞社刊 p.48-49>