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ブーヴィーヌの戦い

1214年、フランスがフィリップ2世の時、イギリス・神聖ローマ帝国に勝った戦い。フランスの国家統一の第1歩となった。

 1214年フランス王国のカペー朝フィリップ2世が、神聖ローマ皇帝オットー4世、イングランド王国ジョン、フランドル伯などの連合軍を破った戦い。ブーヴィーヌはリール近くの平野。これはカペー朝の強大化を警戒する神聖ローマ皇帝と、フランス内の領土の奪回を目ざすイギリス王ジョンなどが連合してフランス王フィリップ2世に挑んだ戦いであったが、フィリップ2世の勝利となった。これによって神聖ローマ帝国とイギリスに比べて弱体であったフランスがヨーロッパの強国として登場することとなった。
 一方の神聖ローマ帝国はその後、大空位時代となって皇帝権は低下し、イギリスもジョン王に対する貴族の反抗が始まり、翌1215年マグナ=カルタ制定となる。ブーヴィーヌの戦いはフランスの国家統一の始まりとしてフランス史では自覚されている。

フランス国民意識の成立

(引用)フランス国王の敵どもは結合した。英国王(失地王ジョン)、ドイツ皇帝(オットー四世)、フランドル伯フェランおよびその他の大諸侯がフランドルに集中した。この同盟に反対して、フィリップ・オギュストは教会と人民を味方につけた。一二一四年、ブヴィーヌ(北仏の小邑)で、当時としては大変新奇なものだったが、二万人の町民歩兵の力を借りて、彼は封建的反動と外国の侵略者にうち勝った。この勝利がカペェ王家の事業を固めることになった。それは自己の統一を意識した一国の解放に伴う異常な歓喜を持って全フランス人に迎えられた。いたるところに人民は踊り、僧侶は歌い、教会は綴織(壁布)を張りつめられ、道路は草花や枝葉に覆われた。パリでは、学生が七日七夜歌い、踊りつづけた。王は自分に対する陰謀を計ったものたちにすら恩赦を施した。かくて国民共同体が生まれたのである。<アンドレ・モロワ『フランス史』新潮文庫 上 p.76>