ジョン(イギリス国王)
イギリスのプランタジネット朝の国王。大陸領をフランスに奪われるなど失政が続き、1215年、大憲章(マグナ=カルタ)で封建領主(貴族)の諸権利を承認した。
イギリス(厳密にはイングランド王国)のプランタジネット朝の国王。ヘンリ2世の末子。リチャード1世の弟。在位1199~1216年。リチャード1世がフランス王フィリップ2世との戦いで戦死したため、王位を継承する。イギリス国王であったが、父、兄と同様、フランスに所領も継承し、フランス王の臣下でもあった。 → イギリス
1203年、フィリップ2世はジョンがイングランドに行っている間にフランス軍をノルマンディー、アンジューなどに侵攻させた。それらの現地の領主層の中にはフランス王に忠誠を誓っていたものも多かったので、ジョン王に従っていた城は次々と陥落し、結局ジョンの封地はロワール川以南だけとなった。
ジョン自身は破門を恐れていなかったが、フランス王の侵攻はキリスト教徒とみなされないイングランド王を攻撃することであるという正当性を与え、また王国の行政に従事していた聖職者の中に大陸に亡命するものが続出するなど、不利な状況が明白になったので、1213年、ジョンはついに教皇に屈服し大司教人事を受けいれ、毎年1000マルクの寄進をすることで許された。
ジョン王は大陸領土の回復のための戦費をまかなうための臨時の課税を諸侯に諮らずにたびたび強行していた。それは軍役を負担する代わりに金を出せという「軍役代納金」の制度で、ヘンリ2世の時代からあったが、ジョン王はそれを濫発した。イングランドの封建領主(貴族)はすでにジョン王の大陸遠征には実際に出兵せず、代納金を納めるだけになっていた(それがジョンの軍隊が大陸で勝てない理由でもあった)。その負担の増大は彼らを追い詰めていったので、ついにジョン王に対し貴族の従来の権利を守ることを迫り、大憲章(マグナ=カルタ)を承認させたのだった。
1215年、結束した封建領主(貴族)の脅迫に屈したジョン王は、マグナ=カルタとしていったん承認したが、その後その無効を主張、貴族と対立するうちに翌年、病死した。
しかし、1970年代から歴史学研究の上でジョンの再評価が行われるようになっている。学者によっては「ジョンは優れた行政能力を備え、偉大な国王としての精神力にも恵まれていた」と評価する人も現れている。同時代のほうが手厳しいのは、彼が即位した1199年から尚書部(チャンセリ)が国王の日々の生活を事細かに記録するようになったことが理由である。一方、ジョンに押しつけられたマグナ=カルタのほうは、作成されてから今日まで一貫して「不可侵の存在」として神聖視されてきた。現在のアメリカ合衆国の最高裁判決では、マグナ=カルタが「個々人の財産の保護と共同体の権利を守る法」としてたびたび引用されている。<君塚直隆『物語イギリス史(上)』2015 中公新書 p.103>
フランス内の領地を失う
フランス国王フィリップ2世は、ジョン王のフランス内の所領を奪おうと、彼を結婚問題にかこつけて裁判にかけ、出廷を拒むジョン王から臣下の義務違反の理由で所領を取り上げようとした。ジョン王の結婚問題とは、世継ぎの産まれない前妻を離婚し、アングレーム伯爵家のイザベラ(8歳ぐらいだったという)を強引に妻にした事に対し、イザベラの婚約者がフィリップ2世に訴えことをいう。フィリップ2世は、イングランド王としてジョンの甥アーサーを立てようとした。1203年、フィリップ2世はジョンがイングランドに行っている間にフランス軍をノルマンディー、アンジューなどに侵攻させた。それらの現地の領主層の中にはフランス王に忠誠を誓っていたものも多かったので、ジョン王に従っていた城は次々と陥落し、結局ジョンの封地はロワール川以南だけとなった。
ローマ教皇から破門される
1205年には、カンタベリー大司教が死去すると、ローマ教皇インノケンティウス3世は、スティーヴン=ラングトンを後任に推薦してきた。それに対してジョンは、父ヘンリ2世がトマス=ベケットと結んだ協定を持ちだし、司教叙任権が国王にあるとして拒否した。対立は深刻化し、1209年にインノケンティウス3世はジョンを破門にした。ジョン自身は破門を恐れていなかったが、フランス王の侵攻はキリスト教徒とみなされないイングランド王を攻撃することであるという正当性を与え、また王国の行政に従事していた聖職者の中に大陸に亡命するものが続出するなど、不利な状況が明白になったので、1213年、ジョンはついに教皇に屈服し大司教人事を受けいれ、毎年1000マルクの寄進をすることで許された。
マグナ=カルタを認める
破門を解かれたジョンは、大陸の失地を回復しようとしてフランスのアキテーヌに出兵した。しかし、1214年、ジョン王はブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世のフランス軍に敗れ、フランス内の領地奪還に失敗し、フランス内に残るイギリス領はギエンヌ地方だけとなった。ジョン王は大陸領土の回復のための戦費をまかなうための臨時の課税を諸侯に諮らずにたびたび強行していた。それは軍役を負担する代わりに金を出せという「軍役代納金」の制度で、ヘンリ2世の時代からあったが、ジョン王はそれを濫発した。イングランドの封建領主(貴族)はすでにジョン王の大陸遠征には実際に出兵せず、代納金を納めるだけになっていた(それがジョンの軍隊が大陸で勝てない理由でもあった)。その負担の増大は彼らを追い詰めていったので、ついにジョン王に対し貴族の従来の権利を守ることを迫り、大憲章(マグナ=カルタ)を承認させたのだった。
1215年、結束した封建領主(貴族)の脅迫に屈したジョン王は、マグナ=カルタとしていったん承認したが、その後その無効を主張、貴族と対立するうちに翌年、病死した。
(引用)国王ジョンはいったん大憲章に署名したものの、教皇の支持を得て間もなくこれを否認した。貴族たちはフランス国王の軍事的介入を要求し、フランス王(フィリップ2世)はこれに応えて、息子ルイ(後のルイ9世)をイギリス王位の相続人としてイギリスに上陸させた。しかし両国王位の合併――この場合はカペー家のために企てられた――は成功をみることはなかった。ジョンは敗走し、1216年に《桃と熟さないリンゴ酒》にあたって死去した。この時宜をえた国王の死去によって、イギリスの貴族たちとその指導者ウィリアム・マーシャル、ヒューバート・ド・バーグは、ラングトンの調停によって、ジョン王の息子で九歳になる王子をヘンリ3世として承認することになった。貴族たちの支持を失ったフランス軍は撤退した。新しい国王の未成年期の統治(1216~1227)の期間に、貴族たちは大憲章に若干の修正を施し、これによって王権を制限することができた。未成年の王が側近の貴族たちに政治を任せたこの時期には、また国王の諮問に応じる「国王評議会」の権限も増大した。<アンドレ・ブールド/高山一彦・別枝達夫訳『英国史』1976 文庫クセジュ p.32>
Episode 失地王(ラックランド)ジョン
ジョン王を失地王(Lackland)と呼ぶが、それはフランスとの争いで領地を失ったからではなく、まだ若かった時、父のヘンリ2世が「兄たちに土地を分けてしまったので、おまえにはもう無い。」と言われたことから、あだなが「無地王」といわれたことによる。もっともヘンリ2世は4男坊であったジョンが最も可愛かったらしく兄のリチャードが相続することになっていたアキテーヌ領をジョンに譲ってくれないかとリチャードに申し出て断られ、親子関係が悪化し、一時は内戦となった。Episode 「ワースト1」の国王?
ウィリアム征服王から現在のエリザベス2世にいたる41人のイギリス歴代国王のなかで、ジョンは常に「ワースト1位」の存在である。ジョンが亡くなった直後に聖職者が記した年代記に「無能で、嘘つきで、戦に弱く、卑劣で、かんしゃく持ち」と書かれており、『ロビンフッド』では「悪役」として描かれている。そのためか、イギリス国王で、ジョンを名乗る国王は二度と現れなかった(ヘンリやリチャードは何人もいるのに)。しかし、1970年代から歴史学研究の上でジョンの再評価が行われるようになっている。学者によっては「ジョンは優れた行政能力を備え、偉大な国王としての精神力にも恵まれていた」と評価する人も現れている。同時代のほうが手厳しいのは、彼が即位した1199年から尚書部(チャンセリ)が国王の日々の生活を事細かに記録するようになったことが理由である。一方、ジョンに押しつけられたマグナ=カルタのほうは、作成されてから今日まで一貫して「不可侵の存在」として神聖視されてきた。現在のアメリカ合衆国の最高裁判決では、マグナ=カルタが「個々人の財産の保護と共同体の権利を守る法」としてたびたび引用されている。<君塚直隆『物語イギリス史(上)』2015 中公新書 p.103>