シュタウフェン朝
シュタウフェン家が継承した、12~13世紀の神聖ローマ帝国の王朝。中世ドイツの全盛期でもあったが、皇帝と諸侯の関係ではヴェルフェン家などとの抗争が続き、また積極的にイタリア政策を進めたが、ローマ教皇・都市同盟との対立が厳しく、その支配は安定しなかった。13世紀のフリードリヒ2世はシチリア王を兼ねてパレルモでイスラーム文化とも融合した独自の宮廷文化を生み出した。
シュタウフェン家はホーエンシュタウフェン家ともいい、ドイツの諸侯の一つシュヴァーベン家から分かれ、1138年にコンラート3世が神聖ローマ帝国の皇帝(同時にドイツ王)に選出されてから、ザーリアー朝に代わって6代にわたり皇帝を出した。有名なのが「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世とその孫で「最初の近代的人間」と言われるフリードリヒ2世。
歴代のシュタウフェン朝皇帝は皇帝権の回復に努め、叙任権闘争ではローマ教皇とはげしく対抗した。しかし、ドイツを治めながら代々「イタリア政策」に重点を置いたため、本国ドイツは諸侯の分立が続き、統一はとれなかった。
ヴェルフェン家との抗争 1152年、ドイツ国王となったフリードリヒ1世は、ヴェルフェン家のハインリヒ(獅子公)をザクセン大公に任命した。1154年にローマに神聖ローマ皇帝の戴冠のためにイタリアに遠征した時は、ハインリヒの支援を受けるためにさらにバイエルン大公梁も与えた。しかし、1176年、北イタリアのロンバルディア都市同盟との戦争では、ハインリヒは援軍を送らなかったため、フリードリヒ1世はレニャーノの戦いで大敗してしまった。ドイツに帰ったフリードリヒ1世はハインリヒを帝国会議の裁判にかけ、ザクセンとバイエルンの領地を剥奪して、サンチャゴ=デ=コンポステラへの巡礼を命じた。1190年、フリードリヒ1世は第3回十字軍に参加して、途中、事故で死んでしまうと、両家の和解が成立して、ハインリヒは本来の領地ブラウンシュヴァイクとリューネブルク(これが後のハノーヴァー公国となる)の回復が認められた。両者の長い対立は、イタリアでの皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立と連動していた。ギベリンはシュタウフェン家の居城の名前、ゲルフはヴェルフェンにちなむものだった。
イタリア政策 フリードリヒ1世は合計6回イタリア遠征を行い、38年の在位のうち、延べ13年をイタリアで過ごしている。他のシュタウフェン朝の皇帝たちも積極邸にイタリア政策を展開した。それはローマ皇帝という称号のもつ理念にもよるが、シュタウフェン家の基盤である南西ドイツのシュヴァーベンの南につながるブルグンドや北イタリアを支配することで、ドイツに於ける少ない基盤を補わざるを得ないという現実的な理由もあった。しかし、12世紀という時代はヨーロッパ各地での都市の勃興という新しい情勢が生まれており、1167年には皇帝の北イタリア支配に対抗して教皇の支援を受けたロンバルディア都市同盟が結成され、イタリア政策は困難になっていった。
シチリア島のシュタウフェン朝 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、イタリア全土の支配をめざし、息子ハインリヒ6世をノルマン朝シチリア王国の王女と結婚させた。1194年にはハインリヒ6世がシチリア王になってシチリア島のシュタウフェン朝の支配が始まった。これによって、神聖ローマ帝国がイタリア中部の教皇領を北と南で挟み撃ちできる立場を手に入れた。
また祖父の1世と同じく、ローマ教皇、ロンバルディア同盟と激しい対立をくり返し、イタリアでは教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の二派に別れての争いが続いた。教皇とも対立していたので十字軍にも熱心ではなかったが、1228年にようやく第5回十字軍を起こし、外交交渉によってイェルサレムの奪回に成功したが、まもなく帰国した。
シチリア王位はシュタウフェン家が継承していたが、1266年、ローマ教皇はシュタウフェン家を南イタリアから排除するため、フランス王ルイ9世に働きかけ、ルイ9世は弟のアンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー)を派遣した。シャルルはシュタウフェン家のマンフレディ(病死したコンラート4世の弟)を倒してシチリア王となり、1268年にはコンラート4世の遺児コンラディンも殺害して、シチリアのシュタウフェン家も断絶、アンジュー家によるシチリア島支配が確立した。
歴代のシュタウフェン朝皇帝は皇帝権の回復に努め、叙任権闘争ではローマ教皇とはげしく対抗した。しかし、ドイツを治めながら代々「イタリア政策」に重点を置いたため、本国ドイツは諸侯の分立が続き、統一はとれなかった。
中世ドイツの華やかな時代
シュタウフェン朝の時代(1138-1208,1215-1254)は、温暖な気候に支えられ、経済的にも発展し、華やかな宮廷、きらびやかな鎧甲に身を包んだ騎士たちの馬上試合(トーナメント)、ミンネジンガーが俗語(中高ドイツ語)で愛の歌を歌い、ドイツ中世のイメージそのものの時代であった。<山本文彦『神聖ローマ帝国』2024 中公新書 p.58>フリードリヒ1世
このシュタウフェン朝が直面する問題は二つあった。一つは、ザクセン大公ハインリヒ獅子公に代表されるヴェルフェン家との対立であり、それは皇帝と諸侯の関係という国政上の問題であった。もう一つは皇帝とローマ教皇との関係であり、1122年のヴィルムスの協約によって皇帝の教会に対する権利は世俗的な面に限定されたが、教会の保護者としての権利と義務を失ったわけではないので、まだ完全には解決していなかった。そのため神聖ローマ皇帝としてイタリア政策を進めるシュタウフェン朝にとっては、常に敵対勢力となった。ヴェルフェン家との抗争 1152年、ドイツ国王となったフリードリヒ1世は、ヴェルフェン家のハインリヒ(獅子公)をザクセン大公に任命した。1154年にローマに神聖ローマ皇帝の戴冠のためにイタリアに遠征した時は、ハインリヒの支援を受けるためにさらにバイエルン大公梁も与えた。しかし、1176年、北イタリアのロンバルディア都市同盟との戦争では、ハインリヒは援軍を送らなかったため、フリードリヒ1世はレニャーノの戦いで大敗してしまった。ドイツに帰ったフリードリヒ1世はハインリヒを帝国会議の裁判にかけ、ザクセンとバイエルンの領地を剥奪して、サンチャゴ=デ=コンポステラへの巡礼を命じた。1190年、フリードリヒ1世は第3回十字軍に参加して、途中、事故で死んでしまうと、両家の和解が成立して、ハインリヒは本来の領地ブラウンシュヴァイクとリューネブルク(これが後のハノーヴァー公国となる)の回復が認められた。両者の長い対立は、イタリアでの皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立と連動していた。ギベリンはシュタウフェン家の居城の名前、ゲルフはヴェルフェンにちなむものだった。
イタリア政策 フリードリヒ1世は合計6回イタリア遠征を行い、38年の在位のうち、延べ13年をイタリアで過ごしている。他のシュタウフェン朝の皇帝たちも積極邸にイタリア政策を展開した。それはローマ皇帝という称号のもつ理念にもよるが、シュタウフェン家の基盤である南西ドイツのシュヴァーベンの南につながるブルグンドや北イタリアを支配することで、ドイツに於ける少ない基盤を補わざるを得ないという現実的な理由もあった。しかし、12世紀という時代はヨーロッパ各地での都市の勃興という新しい情勢が生まれており、1167年には皇帝の北イタリア支配に対抗して教皇の支援を受けたロンバルディア都市同盟が結成され、イタリア政策は困難になっていった。
シチリア島のシュタウフェン朝 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、イタリア全土の支配をめざし、息子ハインリヒ6世をノルマン朝シチリア王国の王女と結婚させた。1194年にはハインリヒ6世がシチリア王になってシチリア島のシュタウフェン朝の支配が始まった。これによって、神聖ローマ帝国がイタリア中部の教皇領を北と南で挟み撃ちできる立場を手に入れた。
フリードリヒ2世
ハインリヒとシチリア王女の間にパレルモで生まれたのがフリードリヒ2世(イタリア風の言い方ではフェデリーコ2世)であり、彼は後にシチリア王となり、1220年にはドイツ王・シチリア王を兼ねながら神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。神聖ローマ皇帝となってからもほとんどシチリアを離れず、パレルモで政治を行い、その宮廷は当時ヨーロッパで最も進んだ文化を生み出した。また祖父の1世と同じく、ローマ教皇、ロンバルディア同盟と激しい対立をくり返し、イタリアでは教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の二派に別れての争いが続いた。教皇とも対立していたので十字軍にも熱心ではなかったが、1228年にようやく第5回十字軍を起こし、外交交渉によってイェルサレムの奪回に成功したが、まもなく帰国した。
シュタウフェン朝の断絶
フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ではあるがシチリアで活動した。そのためドイツの分裂はさらに進み、1250年に没して次のコンラート4世が継承したが、1254年にコンラート4世が若死にし、神聖ローマ帝国は皇帝を欠くという「大空位時代」に入る。シチリア王位はシュタウフェン家が継承していたが、1266年、ローマ教皇はシュタウフェン家を南イタリアから排除するため、フランス王ルイ9世に働きかけ、ルイ9世は弟のアンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー)を派遣した。シャルルはシュタウフェン家のマンフレディ(病死したコンラート4世の弟)を倒してシチリア王となり、1268年にはコンラート4世の遺児コンラディンも殺害して、シチリアのシュタウフェン家も断絶、アンジュー家によるシチリア島支配が確立した。