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シュタウフェン朝

シュタウフェン家が継承した、12~13世紀の神聖ローマ帝国の王朝。イタリア政策をとったためドイツ支配は弱体であった。

 シュタウフェン家はホーエンシュタウフェン家ともいい、ドイツの諸侯の一つシュヴァーベン家から分かれ、1138年にコンラート3世が神聖ローマ帝国の皇帝(同時にドイツ王)に選出されてから、ザーリアー朝に代わって6代にわたり皇帝を出した。有名なのが「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世とその孫で「最初の近代的人間」と言われるフリードリヒ2世
 歴代のシュタウフェン朝皇帝は皇帝権の回復に努め、叙任権闘争ではローマ教皇とはげしく対抗した。しかし、ドイツを治めながら代々「イタリア政策」に重点を置いたため、本国ドイツは諸侯の分立が続き、統一はとれなかった。

シチリア島のシュタウフェン朝

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、イタリア全土の支配をめざし、息子ハインリヒをノルマン朝シチリア王国の王女と結婚させた。1194年にはハインリヒがシチリア王になってシチリア島のシュタウフェン朝の支配が始まった。
 ハインリヒとシチリア王女の間にパレルモで生まれたのがフリードリヒ(イタリア風の言い方ではフェデリーコ)であり、彼は後にシチリア王となり、1220年にはドイツ王・シチリア王を兼ねながら神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。神聖ローマ皇帝となってからもほとんどシチリアを離れず、パレルモで政治を行い、その宮廷は当時ヨーロッパで最も進んだ文化を生み出した。また祖父の1世と同じく、ローマ教皇、ロンバルディア同盟と激しい対立をくり返し、イタリアでは教皇党(ゲルフまたはグェルフ)皇帝党(ギベリン)の二派に別れての争いが続いた。皇帝党をギベリンというのはシュタウフェン家の居城ヴァイブリンゲンのイタリア語の訛ったものである。

シュタウフェン朝の断絶

 フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ではあるがシチリアで活動した。そのためドイツの分裂はさらに進み、1250年に没して次のコンラート4世が継承したが、1254年にコンラート4世が若死にし、神聖ローマ帝国は「大空位時代」に入る。
 シチリア王位はシュタウフェン家が継承していたが、1266年、ローマ教皇はシュタウフェン家を南イタリアから排除するため、フランス王ルイ9世に働きかけ、ルイ9世は弟のアンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー)を派遣した。シャルルはシュタウフェン家のマンフレディ(病死したコンラート4世の弟)を倒してシチリア王となり、1268年にはコンラート4世の遺児コンラディンも殺害して、シチリアのシュタウフェン家も断絶、アンジュー家によるシチリア島支配が確立した。
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