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アンジュー伯/アンジュー帝国

フランスのアンジュー地方の大領主。1154年、イギリス王位を継承しプランタジネット朝を創始した。英仏にまたがる広大な領地を有したのでアンジュー帝国と言うこともある。

 アンジュー地方はフランスのパリからみて南西部、ロワール川流域一帯で、その地方を領有する大領主(貴族)がアンジュー伯。とはフランク王国の地方行政官だった官職名(フランス語でコント)で地方豪族が任命され、アンジュー家は940年頃から伯の地位を代々世襲した。12世紀までに周辺のトゥレーヌなどを併せて、カペー朝のフランス王の臣下でありながら国王をしのぐ強大な勢力を持つようになっていた。

アンジュー帝国の成立

アンジュー帝国地図
12世紀後半 ヘンリ2世時代のアンジュー帝国
指博昭『図説イギリスの歴史』p.22、城戸毅『百年戦争』p.18 などを参照に作成
 アンジュー伯であったアンリは1152年、アキテーヌ伯領の継承者であるエリアノール(アリエノールとも表記)と結婚し、その地を併せて支配することとなった。彼は母がイギリス・ノルマン朝ヘンリ1世の娘マティルダであったので、ノルマン朝の断絶に際してその王位を継承し、1154年にイギリス王ヘンリ2世として即位した。これがプランタジネット朝の始まりであるが、これによってヘンリ2世はイングランドとノルマンディーを獲得した。こうしてヘンリ2世は英仏海峡にまたがる広大な領土を支配することとなったが、これをアンジュー帝国という場合もある。後に、ヘンリ2世は息子の一人ジェフリをブルターニュ公の娘と結婚させたので、その地も帝国に組み込まれることとなった。ヘンリ2世はイングランド王国プランタジネット朝の国王であったが、アンジュー、ノルマンディーその他のフランス内の領主としてはフランス国王カペー朝の臣下であるという形となった。
 また、ヘンリ2世は1171年に自らアイルランドに遠征し、東半分を臣従させた。これがイングランドのアイルランド進出の始まりとなった。さらにウェールズスコットランドに対して宗主権を認めさせ、間接的に支配した。
アンジュー帝国とは ヘンリ2世とアリエノールの結婚で成立した、英仏海峡をはさんでイングランドからアンジュー、ノルマンディー、アキテーヌに及ぶ広大な領土をもつプランタジネット朝の国家体制を、最近は「アンジュー帝国」と言うことが多い。その統治者ヘンリ2世はフランスのアンジューに居り、公用語としてはフランス語が使われていたが、その実態はイングランド・アンジュー・ノルマンディー・アキテーヌなどからなる複合国家であり、近代国家のような中央官庁が統一的に統治するものではなかった。その形態が、後の第二帝国と言われたイギリス連邦がイギリス本国と独立性の強い自治国(ドミニオン)から構成されていたのに似ているところから、そのように言われるようになった。いずれにせよ、近代以降の国民国家段階のイギリス・フランスという枠組みで見ることはできない。
(引用)ここにヘンリ2世は西欧でも最強の支配者として登場することになったのである。とはいえ、そのれは今日言われるような「帝国(エンパイア)」とは程遠いものであった。ヘンリ2世が治める10以上の領国にはそれぞれの支配秩序・習慣・貨幣制度が存在し、彼にはそれを一つにまとめるだけの力は備わっていなかったからだ。ヘンリ2世は各々の領国の現状を維持し、各地をこまめに巡回しながら統治を進めていかなければならなかったのである。<君塚直隆『物語イギリスの歴史(上)』2015 中公新書 p.70>

アンジュー帝国の消滅

 ヘンリ2世は広大な領土を息子たちに分与したが、その相続をめぐって親子間の争いが生じ、それにフランス王が介入するなど、対立が絶えなかった。1189年、ヘンリ2世が北フランスのシノン城で死去するとアンジュー帝国は獅子心王リチャード1世が継承したが、国王となってからの彼は、関心を聖地奪回に集中し第3回十字軍に加わって長く不在となり、フランス内の領地はフランス王が狙うこととなった。次のジョンの時に、フランス王フィリップ2世はノルマンディー・アンジューなどに侵攻し、最終的には1214年ブーヴィーヌの戦いでジョン王は敗れ、ノルマンディーとアンジューを失った。次のヘンリ3世は大陸領の回復を目指し、出兵を試みたが失敗し、1259年にフランス王ルイ9世との間で条約を締結し、ノルマンディーとアンジューなどのフランス北西部への権利を正式に放棄し、見返りとしてアキテーヌ公としてガスコーニュ(アキテーヌ地方南部)の領有のみを認められた。

シチリアのアンジュー朝

 なお、アンジュー家領はフランス王領となった後、ルイ9世の弟シャルルに与えられ、シャルルはアンジュー伯を名乗った(シャルル=ダンジュー)。
 そのころ、ローマ教皇は対立していたシチリア王国(両シチリア王国)のシュタウフェン朝支配を覆そうとして、アンジュー伯シャルルに攻撃を依頼した。シャルルは1266年シチリアに侵攻しシュタウフェン家の王マンフレディを破り、シチリアと南イタリアのナポリを征服し両シチリア王となった。シャルルはさらに地中海支配をねらったが、しかし、フランス人の支配を嫌うシチリア島民の反発を受け、1282年パレルモで反フランス暴動のシチリアの晩祷事件が起きる。シチリア島民はスペインのアラゴン家(マンフレートの女婿)の支援を要請、アラゴン軍がシチリアに上陸したため、アンジュー家のシチリア島支配は終わり、ナポリを中心とした南イタリアのみを支配するナポリ王国の王家となる。
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君塚直隆
『物語イギリスの歴史(上)』
2015 中公新書