聖職叙任権/叙任権闘争
ヨーロッパ中世ではローマ=カトリック教会の聖職者を任免する聖職叙任権は、神聖ローマ皇帝以下の国王・領主ら世俗の権力が持っていたのに対し、11~12世紀にカトリック教会改革運動の一環として、ローマ教皇がその権利を得ようとして皇帝と争ったのが聖職叙任権闘争である。
ローマ=カトリック教会の階層制組織上の大司教・司教・修道院長など高位聖職者の任免権は、オットー大帝以来の帝国教会政策に基づき、世俗の権力である神聖ローマ皇帝(ドイツ王が兼任)が有し、下位聖職者任免権もイギリス、フランスなどの国王や領主ににぎられていた。それに対して、10世紀にクリュニー修道院から始まった修道院運動が強まるなかで、俗権による支配が教会堕落の原因であると自覚したカトリックの改革派のローマ教皇レオ9世やグレゴリウス7世によって始まった。それは聖職売買や聖職者妻帯などの堕落の要因は俗権が聖職者の任命権を持っていることにあるとおいう認識し、聖職者叙任権を教皇以下教会の手に奪回する運動として進められた。それが11世紀中頃から始まった叙任権闘争といわれる歴史的な動きであり、教皇と皇帝の政治的な対立にまで深刻化し、中世ヨーロッパの動きに重大な影響を与えた。
しかしその後、ハインリヒ4世はドイツ諸侯をまとめて反撃に転じ、対立教皇を即位させてグレゴリウス7世をローマから追放し、優位を回復したが、ローマ教皇側も諸侯を味方に付けながら勢力を回復し、しばらく両陣営の対立が続いた。皇帝位がドイツ諸侯の内紛のため弱体化したこともあって、次第に教皇側が優勢となる中、1095年、クレルモン宗教会議を召集したウルバヌス2世が、聖職者叙任権を改めて否定し、同時に十字軍運動を提唱したことで、教皇の存在が際立つようになった。しかも派遣された十字軍が当初の勝利によって聖地回復を実現したことなどから教皇の権威が高まり、1122年、ヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認める妥協が成立して叙任権闘争は終わりを告げることになる。
ローマ教皇は神聖ローマ皇帝の戴冠を行ってその権威を保障し、イギリスやフランスの教会はそれぞれ国王を塗油することによって聖なる存在として権威を与えていた。しかし、教皇や教会は皇帝、国王あるいは諸侯の任免権は持ってはいなかった。逆に、皇帝や国王は教皇選出に干渉し、大司教・司教・修道院長などの高位聖職者の任免権は皇帝が有し、国王・諸侯などのも域内の聖職者の任免権を有していた。中世ヨーロッパのカトリック教会の聖職者叙任権は世俗の権力に握られていた。
特に神聖ローマ帝国では、オットー1世(大帝)以来、帝国教会政策をとり、帝国内の教会は皇帝に服すべきものとしてその聖職者を皇帝が任免し、官僚化を進めていた。また他の世俗の諸侯も、自分の領内の教会を「私教会」として聖職の任免権を行使した。ローマ教皇(ローマ教会)は教会法に基づき、帝国教会政策や私教会を否認したが、事実上、聖職叙任権は皇帝や国王、諸侯らの世俗権力に握られることとなっていた。その結果、俗人が聖職者に任用され、聖職者の地位が金銭で売買される聖職売買されたり、妻帯者が聖職に就くことが一般化し、いわゆる教会の腐敗堕落がすすみ、その権威が著しく低下してきた。
ハインリヒ4世の復権とグレゴリス7世の敗北 ドイツ国王としてドイツに戻ったハインリヒ4世は、ドイツ諸侯とドイツ領内の高位聖職者に対する働きかけを強めて反教皇の態勢を回復し、両者の対立は武力衝突を引き起こすなど激しい対立が続き、形勢は一進一退した。1081年に教皇グレゴリウス7世が再び破門にすると、今度はハインリヒ4世はセレに屈せず、軍隊を派遣して教皇をローマから追放、自らは対立教皇クレメンス3世から正式に神聖ローマ皇帝の戴冠を受けた。こうして教皇の権威は大きく揺らいだが、その権威を回復させることに成功したのが、ウルバヌス2世による十字軍運動の提唱だった。
「カノッサの屈辱」から「ヴォルムス協約」へ
この闘争は1075年、グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝以下の世俗権力の聖職者叙任権を否定する決定を出してから本格化し、それに反発した皇帝ハインリヒ4世を破門としたことから起こった1077年の「カノッサの屈辱」事件で頂点に達した。このときは皇帝が教皇に謝罪し、聖職叙任権の否定を認めた上で破門を解かれたことによって教皇の優位を示そうとした。しかしその後、ハインリヒ4世はドイツ諸侯をまとめて反撃に転じ、対立教皇を即位させてグレゴリウス7世をローマから追放し、優位を回復したが、ローマ教皇側も諸侯を味方に付けながら勢力を回復し、しばらく両陣営の対立が続いた。皇帝位がドイツ諸侯の内紛のため弱体化したこともあって、次第に教皇側が優勢となる中、1095年、クレルモン宗教会議を召集したウルバヌス2世が、聖職者叙任権を改めて否定し、同時に十字軍運動を提唱したことで、教皇の存在が際立つようになった。しかも派遣された十字軍が当初の勝利によって聖地回復を実現したことなどから教皇の権威が高まり、1122年、ヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認める妥協が成立して叙任権闘争は終わりを告げることになる。
皇帝の持つ聖職者叙任権
ヨーロッパ世界が、キリスト教信仰であまねく覆われていた中世において、ローマ=カトリック教会はローマ教皇を頂点として、その下に大司教・司教・司祭、修道院長などの階層制組織(ヒエラルキア)が成立していた。ローマ教皇は神聖ローマ皇帝の戴冠を行ってその権威を保障し、イギリスやフランスの教会はそれぞれ国王を塗油することによって聖なる存在として権威を与えていた。しかし、教皇や教会は皇帝、国王あるいは諸侯の任免権は持ってはいなかった。逆に、皇帝や国王は教皇選出に干渉し、大司教・司教・修道院長などの高位聖職者の任免権は皇帝が有し、国王・諸侯などのも域内の聖職者の任免権を有していた。中世ヨーロッパのカトリック教会の聖職者叙任権は世俗の権力に握られていた。
特に神聖ローマ帝国では、オットー1世(大帝)以来、帝国教会政策をとり、帝国内の教会は皇帝に服すべきものとしてその聖職者を皇帝が任免し、官僚化を進めていた。また他の世俗の諸侯も、自分の領内の教会を「私教会」として聖職の任免権を行使した。ローマ教皇(ローマ教会)は教会法に基づき、帝国教会政策や私教会を否認したが、事実上、聖職叙任権は皇帝や国王、諸侯らの世俗権力に握られることとなっていた。その結果、俗人が聖職者に任用され、聖職者の地位が金銭で売買される聖職売買されたり、妻帯者が聖職に就くことが一般化し、いわゆる教会の腐敗堕落がすすみ、その権威が著しく低下してきた。
教会改革の中で
10世紀に教会側に改革運動が盛り上がり、聖職者の叙任権は教会(とその頂点の教皇)がもつべきであるという考えが起こってきた。それは聖職者の腐敗の一つである聖職売買が、聖職叙任権が世俗の権力に握られているために起こると考えられたからだ。特にクリュニー修道院を中心とした改革派は強くそのことを主張するようになった。聖職叙任権を重要な権力の行使と考えている世俗の政治権力(その頂点が神聖ローマ皇帝)側は、それを手放すことは認められないことなので、この対立は中世ヨーロッパの政治的対立軸となっていく。叙任権奪回を目指す教皇
1049年に教皇となったレオ9世は、教皇庁を修道院運動の中心であったクリュニー修道院の影響を強く受けた改革派(後のグレゴリウス7世も含む)で固め、自ら宗教会議をランスで開催し(皇帝主催ではなく)、聖職売買と聖職者の結婚の禁止と、禁を犯した聖職者の追放を決議した。彼の死後、改革派は1059年に教皇選挙法を定め、教皇は直属の諮問機関である枢機卿会議で選出されるべきものとして、俗権の介入を排除しようとした。カノッサの屈辱
さらに1075年、教皇グレゴリウス7世は皇帝以下の俗人の聖職叙任権を否定、翌年にはそれを拒否した神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門し、聖職叙任権闘争が全面的な対立となった。破門はキリスト教徒であることを否定されることであり、ドイツ諸侯もハインリヒ4世から離反する動きが強まったので、1077年1月。ハインリヒはやむなくカノッサに滞在中の教皇を訪ねて許しを請うという「カノッサの屈辱」の事件が起こった。これによって教皇の優位が示されたが、闘争は決着がついたわけでは亡く、むしろ本格的な始まりとなった。ハインリヒ4世の復権とグレゴリス7世の敗北 ドイツ国王としてドイツに戻ったハインリヒ4世は、ドイツ諸侯とドイツ領内の高位聖職者に対する働きかけを強めて反教皇の態勢を回復し、両者の対立は武力衝突を引き起こすなど激しい対立が続き、形勢は一進一退した。1081年に教皇グレゴリウス7世が再び破門にすると、今度はハインリヒ4世はセレに屈せず、軍隊を派遣して教皇をローマから追放、自らは対立教皇クレメンス3世から正式に神聖ローマ皇帝の戴冠を受けた。こうして教皇の権威は大きく揺らいだが、その権威を回復させることに成功したのが、ウルバヌス2世による十字軍運動の提唱だった。
十字軍運動と教皇権の確立
1095年、グレゴリウス7世の後継者ウルバヌス2世が十字軍運動を提唱し、西ヨーロッパの主導権を握ると一挙に教皇側に有利に展開するようになり、ハインリッヒ4世の子ハインリッヒ5世は一転して教皇側と妥協、1122年、両者の間でヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は終わりを告げた。参考 ゴンブリッチの解説
「叙任権闘争」は、日本人の世界史学習の中で、わかりずらいテーマのひとつだ。これを理解できれば、中世ヨーロッパの歴史の理解の大半の見通しがたつだろう。概説書は沢山あるが、難しい歴史用語を使わずとも、最も良く判るのが、ゴンブリッチの『若い読者のための世界史』の次の文ではないだろうか。(引用)はじめのうちは、これ(ドイツ王が皇帝として教会の保護者となり、他の貴族と同じように聖職者に土地を貸し与えたこと)は教皇にとっても都合のよいことであった。教皇と、武力でも政治の面でも彼を守り、またみなが敬虔なキリスト教徒であったドイツ皇帝との関係は、非常にうまくいっていたのだ。ゴンブリッチ(1909-2001)はウィーンに生まれ、ナチス時代にロンドンに亡命した美術史家。20世紀で最も注目を集めた美術史家で『美術の物語』などの著作がある。
しかし、やがて事情は変わった。教皇には、マインツ、トリール、ケルン、パッサウの司教が、皇帝の都合だけで皇帝の司祭のなかからえらばれることがゆるせなくなった。「彼らは教会に属する聖職者であり、その職は、教会の最高責任者である自分がきめるべきである」というのが、教皇の主張であった。しかし司教は、まさにたんなる教会の聖職者ではなかった。たとえばケルンの大司教は、魂の世話人であると同時に、この地方の領主であり、軍隊の指揮官であった。皇帝の土地の領主であり軍隊の指揮官になる者は、とうぜん皇帝によって任命されるべきである。さて、きみはどう思う。皇帝も教皇も、両者がそれぞれの立場からみれば完全に正しいと、きみにも思われるのではないかね。聖職者に土地を貸しあたえたことが、人々を窮地に追い込むことになったのだ。すべての聖職者の最高の支配者は、教皇である。すべての土地の最高の支配者は、皇帝である。ここに争いが起きるのはとうぜんであり、事実起こったのだ。それが「叙任権闘争」とよばれるものなのだ。<エルンスト・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史』上 2012 中公文庫 p.226>