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オアシスの道/シルク=ロード/絹の道

ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路の一つ。東方の絹が西方に運ばれた道なので絹の道(シルクロード)、天山山脈の南側のオアシス都市を結んでいるのでオアシスの道ともいう。天山山脈の北側を通る草原の道も含めることも多い。道と言っても多くは砂漠を横断するので様々なルートがあり、その通路一帯をさしている。

 ユーラシア大陸の北緯30°~45°に添った、乾燥地帯に点在するオアシス都市を中継する東西貿易のルート。古くから、西方世界では珍しい東方の(シルク)を始めとする産物がもたらされたので、シルクロード絹の道とも言う。この地域には多くの遊牧国家が興亡した。また西方からのアレクサンドロスの遠征、東方の漢の武帝時代の張騫の派遣などの後、イラン系ソグド人の商人の活動が活発となった。
 紀元1世紀ごろには、地中海世界でローマ帝国が成立、西アジアのパルティア、インドのクシャーナ朝、中国の後漢帝国がユーラシア大陸の東西に登場し、相対的な安定がもたらされたことから、東西交易が盛んとなり、中国の絹が遠くローマにもたらされ、ローマの金貨がクシャーナ朝の遺跡で発見されるなど、活発なシルクロード交易が行われたことが明らかになっている。次いで6世紀以降はトルコ系民族の活動が活発となり、13世紀にはモンゴル民族による大遊牧国家が成立した。

シルクロードという歴史用語

 「シルク=ロード」の名称は、19世紀末のドイツの地理学者リヒトホーフェンが言い出したものである。そこで交易品となったものは、主に東方からもたらされる絹・絹織物と、西方からもたらされるであったので、絹馬貿易ともいわれている。ただし、実際にシルク=ロードという実際の道路があるわけではない。オアシス都市は、乾燥した砂漠地帯にあるので、オアシスとオアシスを結ぶネットワークを、ラクダなどの隊商が移動するのが実際であった。
 なお、一般に、シルクロードは「オアシスの道」(天山南路)をさすことが多いが、東西交易ルートはそれ以外にユーラシア大陸の草原(ステップ)をルートとする草原の道(ステップ=ロード、天山北路)もあった。また、オアシス=ロード、ステップ=ロードのような陸上ルートのほかに、アラビア海・インド洋・南シナ海・東シナ海を結ぶ海の道(海上交通路)もあった。シルクロードで最も活発な交易が行われたのは、7~8世紀までで、ほぼ8~9世紀以降は、イスラーム商人や中国商人による海の道が主となっていく。海の道は、陸上では重くて運べなかった陶磁器が交易品として船で運ばれるようになったので陶磁の道ともいわれている。「オアシスの道」・「草原の道」・「海の道」をシルクロードと総称して説明されることも多い。

参考 シルクロード史観論争

中央アジアから見たシルクロード シルクロードは中国文明圏と地中海文明圏という、ユーラシアの東西を結びつける重要な「東西交易ルート」であることが強調されている。そのような見方だと、張騫から始まる中国人の西域進出や、絹織物や製紙法の西方への伝播、あるいはローマ帝国やビザンツ帝国の使節の東方派遣、ネストリウス派キリスト教の中国への伝来などが関心の対象となっている。しかし、このような「シルクロード史観」だと、その舞台となった中央アジアそのものの内実が欠落してしまうのではないか、という批判がある。その批判的観点からすると、重要な意味をもつのはシルクロードでの東西交渉ではなく、中央アジアにおける、北部の草原地帯の遊牧民と、南部のオアシス地帯の農耕民という二つの文化圏の違いとその交渉ということになる。特にこの中央アジアの北部と南部の違いの中で最も重要なのがトルコ民族史である。
(引用)この場合、もともと草原の遊牧民であったトルコ人が、いかにしてオアシスの定住民となったか、さらに現在の中央アジアのトルコ民族を構成するウズベク、カザーフ、キルギス、ウイグルなどといった諸民族が、いかにして形成されて今日に至ったか、といった問題に大きな関心が払われる。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.7>
 この批判に対して、世界史の中でシルクロードによる東西交易はやはり重要であったと主張する学者との間で「シルクロード史観論争」が80~90年代に展開された。2000年代初めまでの教科書では、シルクロードの「東西交易」の意義を強調し、独立した章で扱っていたが、現在の教科書ではそのような扱いはなくなった。それに対して「トルコ人の中央アジアでの定住化」が重要なテーマとして扱われるようになった。
東西南北を結ぶネットワークとしてのシルクロード シルクロードはかつてのような日本人のロマンをかき立てるテーマではなくなっているが、それでも歴史書を出版するときには依然として魅力的な響きがあるようで、今でもよく使われている。しかし、上のような「シルクロード史観」を経て、従来の立場に立ちながら、その史観に修正を図っているものも現れている。
(引用)シルクロードとは決して「線」ではなく、「面」である。初歩的な概説書や学習参考書の類では、シルクロードとして挙げられるのは中央アジアの天山北路(草原の道)と天山南路(オアシスの道)であり、南路はさらにタリム盆地北辺沿いの西域北道と南辺沿いの西域南道とに分かれ、これらは東西に延びる三本の線で図示されている。あたかもシルクロードとは立派に舗装でもされた人工の一本道であるかのような錯覚を与える。しかし実際のシルクロードは砂漠や草原の道なき道が大部分であり、誰もが同じところを通ることになる狭い峡谷や峠以外はどこを通ってもいいのである。・・・
 さらに問題なのは、天山南北路はいずれも東西に走っているので、シルクロードとは東西交易路だと誤解されてしまうことである。比較的詳しい概説書の付図や歴史地図を見ればわかるのであるが、シルクロードとは東西だけでなく南北にも延びており、多くの支線と合わせると細かい網の目状になっている。無数にある網の結び目(ジャンクション)の多くは交通の要地であり、そこに大小の都市が発生していることがほとんどである。すなわちシルクロードとは東西をつなぐ線ではなく、東西南北に広がるネットワークなのである。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.68>

Episode 「胡」のつく食べ物は

 シルクロードが西方にもたらしたものは絹だけではなく、また西方から中国にさまざまな文物がもたらされた。
(引用)張騫は西域から苜蓿もくしゅく(クローバー)やぶどうを中国に導入したが、それ以外にも珍しい植物が中国にはいっていった。胡瓜きゅうり胡粉ごふん胡麻ごま胡桃くるみくのように、胡を冠したものはすべて西域から伝わったものである。柘榴ざくろくはもともと石榴と書かれ、安息を原産地としていた。
 中国から西方へ向かった産物としては、絹のほか、桃と杏子あんずくがある。これらは絹商人によって前2、1世紀ごろイランにはいり、アルメニア、ギリシア、ローマへと伝わっていった。桃は英語でピーチと呼んでいるが、もともとラテン語のペルシクム=マルム(ペルシアの林檎りんごく)から転じた語で、これによってもその西漸のゆえんがわかる。これらのものは、いずれもシルクロードを通じてつたわったのである。<足利惇氏『ペルシア帝国』世界の歴史9 1977 講談社 p.270>

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書籍案内

間野英二
『中央アジアの歴史』
新書東洋史8
1977 講談社現代新書

森安孝夫
『シルクロードと唐帝国』
興亡の世界史 2007初刊
2016 講談社学術文庫

加藤九祚
『シルクロードの大旅行家たち』
1997 岩波ジュニア新書

張騫、玄奘、ルブリュック、マルコ=ポーロ、イブン=バットゥータなどを紹介。

大村次郷
『シルクロード
歴史と今がわかる事典』
2010 岩波ジュニア新書

トルコから中国までのユーラシア内陸部。現代のシルクロード地帯を活写。事典と言うより写真集。