中央アジア/上海協力組織/SCO
ユーラシア大陸の中央に位置する中央アジアには広大な草原地帯が広がり、多くの遊牧民族が興亡した。近代にはロシアの進出が著しく、ソ連もその支配を継承したが、ソ連解体にともないウズベキスタンなどの5ヵ国が分離独立した。
現在の中央アジア5ヵ国
古くは、イラン系のソグド人が活動した地域なので「ソグディアナ」といわれ、トルコ人が定住してからは「西トルキスタン」(厳密にはカザフスタンはトルキスタンには入らない)といわれた。パミール高原で東トルキスタン(中国領新疆)と区画され、西はカスピ海、北はロシア、南はイラン、アフガニスタン、インドと接する。西流してアラル海に注ぐシルダリヤ川とアムダリヤ川の中流域に広がるオアシス都市を中心に、その周辺の遊牧世界を形成していた。
世界史上はこの地方を舞台に東西交易が活発に繰り広げられ、アレクサンドロス大王、チンギス=ハン、ティムールなどが活動したことが想起される。また、サマルカンドやブハラ、ヒヴァなどは文化史上の重要な都市である。
近代以降、ロシアが南下して征服し、その支配はソ連に継承されたが、常に民族問題が深刻であった。ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン三国の国境線が判りづらく入りくんでいるのは、ソ連の統治の際の民族支配が影響している。ソ連邦を構成していた5ヵ国は現在はそれぞれ主権国家として独立したが、民族対立や国交問題が内在している。
なお、この地方は大部分が砂漠と草原に覆われているが、最近では潅漑敷設が進んで農業地帯となっており(そのためにアラル海の大半が干上がってしまった)、都市部では商工業も盛んである。その中でもウズベキスタンの首都タシケントは中央アジア最大の都市で人口200万を超える大都市である。中央アジアという牧歌的なイメージは払拭しておく必要がある。
中央アジアの歴史
以下、中央アジアの略史をまとめると次のようになる。
トルコ化以前の中央アジア
前6世紀にはアケメネス朝ペルシア帝国の勢力が及び、イラン人の文化圏に入った。前3世にアレクサンドロス大王の遠征がこの地に及び、ヘレニズム文化圏に入り、セレウコス朝の統治が続いた。その衰退に伴い、中央アジア南部からアフガニスタンにかけてギリシア系のバクトリアが台頭した。アム川南岸にはイラン高原から起こったパルティアが進出したが、前160年頃には匈奴に追われて東方から大月氏が移動してきてアム川流域に入った。シル川上流のフェルガナ地方には大宛があった。次いで大月氏から自立したイラン系のクシャーナ朝が中央アジアから北インドにかけて支配し、この時期には仏教がこの地に入った。226年、イラン高原でパルティアに代わって登場したササン朝ペルシアはクシャーナ朝を征服して中央アジアを支配し、この地に起こったゾロアスター教を国教とした。トルコ系民族の進出
5世紀中ごろには遊牧民のエフタル(イラン系かトルコ系か不明)が進出しアム川を超えてイラン東部とインド北西部に進出した。しかしエフタルはササン朝ペルシアと東方のモンゴル高原南部から移動してきたトルコ系民族突厥に挟撃されて滅亡し、突厥はモンゴル高原から中央アジアに及ぶ遊牧帝国である突厥帝国を建設した。これによって中央アジアへのトルコ系民族の西方定住も始まった。しかし突厥は東西に分裂し、中央アジアは西突厥が治めることとなったが、7世紀中ごろまでに唐帝国に制圧された。この頃からイラン系のソグド人がソグディアナのサマルカンドを中心に唐の保護を受けて東西貿易に活動した。このころ、中央アジアはシルクロード交易の中継地として大いに栄えた。突厥に代わって同じくトルコ系のウイグル人がモンゴルからパミール高原の東西に入って定住するようになり、中央アジアのトルコ化が進んだので、この地はトルキスタンと言われるようになった。中央アジアはほぼ西トルキスタンにあたる。中央アジアのイスラーム化
7世紀にササン朝を滅ぼしたイスラーム教勢力(正統カリフ時代)の勢力は、ウマイヤ朝のもとでソグディアナに進出、が及んできて、751年のタラス河畔の戦いを機にイスラーム化が進む(アッバース朝時代)。イスラーム帝国ではアム川以北の地は、マー=ワラー=アンナフル(川の向うの地)と言われた。9~10世紀に中央アジアの最初のイスラーム国家サーマーン朝(イラン系)が成立し、トルコ系民族のイスラーム化が進むと、彼らはマムルークとしてイスラーム教国の軍事力を構成するようになる。その中から台頭し、中央アジア最初のトルコ系イスラーム教国となったのはカラ=ハン朝である。サーマーン朝からカラ=ハン朝の時代はブハラ生まれのイブン=シーナーに代表されるように、イラン=イスラーム文化がこの地で栄えた。またイスラーム教の浸透にはイスラーム神秘主義が大きな力となった。11世紀にはシル川下流にセルジューク族が台頭、彼らは南下してイラン高原、西アジアに侵出し、その後のアム川下流域にはヒヴァを中心にホラズム王国が繁栄した。モンゴルの征服とティムール帝国
13世紀にはチンギス=ハンが遠征してモンゴル人に征服され、モンゴル=ウルスの一つチャガタイ=ハン国の支配を受けたが、14世紀末にその衰退に乗じてトルコ=モンゴル系のティムールが現れ、サマルカンドを都に中央アジアからイラン高原、西アジア、南ロシアに及ぶティムール朝(帝国)を樹立した。ティムール帝国のもとで都サマルカンドを中心に、トルコ語文学、ミニアチュール、天文学などトルコ=イスラーム文化が開花した。16世紀はじめにティムール帝国が滅亡すると、中央アジアにカザーフ、キルギス、ウズベク、新ウイグルなどの新たなトルコ系ー民族社会が形成された。ティムール帝国を滅ぼした同じトルコ系のウズベク人は、シャイバニ朝を建てるが、まもなく、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国のウズベク系三国に分かれた。 → トルコ系民族の諸国家15世紀以降の交易路の衰退
中央アジアはソグド人の活動など、東西交易路が栄えていたが、15世紀末に大航海時代が始まり、世界貿易の主要ルートが海上交通に移行したため、「シルクロード」を通じての国際貿易は衰退したとされている。しかし最近の研究では、15~18世紀にもロシアやイランとの交易は活発に行われ、中央アジアの綿花や毛皮は重要な輸出品とされていたことが明らかにされている。16世紀中葉のブハラは織物など東方の産物をもとめるロシア商人の姿が見られ、この新たな国際貿易路は、カスピ海北岸のアストラハンを中継地として発展した。<『地域からの世界史6 内陸アジア』1992 朝日新聞社 p.116-118>ロシアの侵出とその支配
1552年、イヴァン4世のカザン=ハン国(ヴォルガ中流の旧キプチャク=ハン国の後継国家の一つ)征服以来、ロシア帝国の中央アジア方面への侵出が始まり、ロシア人は次々と入植を進め、19世紀までにはロシアはカザフスタンとカフカスを支配下に置き、さらにクリミア戦争の敗北後、中央アジア方面での南下政策を強め、ロシア軍は1864年にコーカンド=ハン国を攻撃し、タシケントを占領、そのためコーカンド=ハン国は滅亡した。次いでロシアはブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国を保護国とし、中央アジアはロシア帝国の統治下に入った。1867年にはタシケントにトルキスタン総督府を置いて植民地支配を開始した。ロシアの中央アジア侵出は1881年のトルクメン人制圧によって完了するが、それは中央アジアにおける騎馬遊牧民の国家が消滅したことを意味しており、またアフガニスタン方面でのイギリスとの緊張(グレートゲーム)を高めることになる。トルコ系民族の民族的自覚
19世紀末にはトルコ系民族の中に民族的自覚が強まり、特に教育の改革をめざすジャディード(改革派の意味)の運動が起こった。この運動はロシア当局とムスリムの保守的なウラマー達によって抑えつけられたが、この地域の最初のナショナリズムの高揚として注目される。その一人、フィトラトらは「チャガタイ談話会」を組織し中央アジアの共通語としてのトルコ語の確立を図る運動を行った。<小松久男『革命の中央アジア あるジャディードの肖像』1996 東大出版会>ロシア革命と中央アジア
1917年、ロシア革命(第2次)の過程で二月革命が起きロシア帝国が倒れると、5月に中央アジアとカフカスのイスラーム教徒はモスクワで全ロシア・ムスリム大会を開催し、民族ごとの自治共和国を設立することを決議した。十月革命でレーニンらボリシェヴィキ政権が権力を握ると、中央アジアでのソヴィエトの組織化が進んだ。11月にはムスリム民族運動の勢力がコーカンドにトルキスタン自治政府を樹立したが、ロシア人を主体としたソヴィエト政権はそれを認めず、両者の内戦となり、翌年2月には自治政府は崩壊した。こうして社会主義建設をめざすソヴィエトと民族独立をめざすムスリム勢力は厳しく対立するようになった。1918年4月にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国に加盟するトルキスタン自治共和国が成立したが、コーカンドでは自治共和国が倒されたことに反発してソヴィエト政権に対する反乱が起こった。ソヴィエト側はその反乱をバスマチ運動と呼んだが、反乱はトルキスタン全域に及び、長期化し1924年まで続いた。民族的境界画定とソ連邦への加盟
1924年、ロシア共産党は中央の決定として中央アジアを「民族的境界画定」によって分割することを決定し、ウズベク・タジク・キルギス・トルクメン・カザフの5つの社会主義共和国に分け、各国はソヴィエト社会主義共和国連邦に加盟することとなった。この「民族別国家」は、レーニンやスターリンが、トルコ系民族の統一国家を作って自立しようという現地の動き(パン=トルコ主義)を封じるためのものであって、民族分布の実態と異なっていたので現地では反発が強かった。しかし反対したスルタンガリエフ(タタール人)やフィトラト(ジャディードの指導者)らは民族主義的偏向が顕著であるとしてソ連中央から批判され、捕らえられてしまった(その後処刑)。その後、ソ連邦の一部となった中央アジアには、ソフホーズとコルホーズが導入され、綿花などの主要産品をロシアに提供し、工業製品は自給できずにロシアから買うという従属的経済体制に組み込まれたため発展は阻害された。第二次世界大戦ではスターリン体制に抵抗して民族運動を行ったチェチェンや朝鮮人などの流刑地としされた。戦後は、社会主義体制のもとで生産増強が図られ、灌漑による砂漠の緑化、地下資源の採掘などが積極的に進められ、人口は急増したが、一方でアム川・シル川の水量が激減し、アラル海が干あがるなどの問題や、カザフの草原の中のセミパラチンスクでのソ連の核実験による環境汚染などが深刻化した。
中央アジア5ヵ国の分離独立
1985年のソ連のペレストロイカの開始は中央アジアでも社会主義体制の見直し、民族文化の再認識が自覚的に始められ、1986年から中央アジア諸国における民族運動がイスラーム復活の動きと結びついて展開されるようになった。同年12月にはカザフスタンのアルマアタ市内でカザ付属が放棄し、89年8月にはウズベクのコーカンドでもウズベク族による大規模なデモが起こった。同年には東ヨーロッパ諸国が一斉にの社会主義からの離脱に踏み切った東欧革命の影響を受け、中国でも民主化運動が昂揚して天安門事件(第2次)が起こり、新疆ではウイグル人が自治区の行政府を襲撃した。90年にはキルギスのフルンゼ、ウズベクのサマルカンドにも暴動が広がった。このようななか、1990年には中央アジア諸国は一斉に共和国主権宣言を行い、社会主義とソ連邦からの離脱を宣言、1991年のソ連邦の解体によって正式にウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの5共和国となった。形式的には独立国家共同体(CIS)に加わったが、現在は中央アジア5ヵ国としての共同歩調を強めている。しかし、タジキスタンの内戦や隣接するアフガニスタンやパキスタンとの関係にも不安定な要素を残している。
上海協力組織/SCO
上海協力組織 Shanghai Cooperation Organization 略称SCO は、2001年に、ロシア・中国の両大国に、中央アジアの4ヵ国(キルギス、カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン)が加盟して発足した、資源開発などの経済協力とともに国際テロへの対応などで共同歩調をとることをめざす国際組織である。最近はインドも加盟を希望するなど、ユーラシアの諸国を結ぶ、あらたな地域経済協力、集団安全保障機構として注目されている。上海協力組織の前身は、1996年に、中国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタンの、一般に「上海ファイブ」といわれる5ヵ国が結成した、上海ファイブ体制である。これは、冷戦終結後、中央アジアで高まってきたイスラーム原理主義の台頭による、民族分離主義や反世俗主義の運動を脅威と感じた諸国の利害が一致したことによって発足した。具体的には、国境地帯における不測の軍事衝突を防止し、国境を画定し、兵力の削減を図ることをめざした。1998年からは議題が広がり、「あらゆる民族分離主義、極端な宗教勢力、テロ活動」と戦うことが「アルマアタ声明」に明記された。
この上海ファイブにウズベキスタンが加わって2001年6月15日に発足したのが上海協力組織であり、設立宣言には「互信、互利、平等、協商、文明の多様性の尊重、共同の発展」を原則とする地域的国際組織であると定義され、参加各国元首は「テロリズム・分離主義・イスラーム極端主義の取り締まりに関する上海公約」に調印した。組織は年に一度のサミット(国家元首)・政府首脳会議(首相)・外相会議・国防相会議などの会議体制が整えられ、2002年には「上海協力組織憲章」が調印された。事務局は2003年から北京に置かれ、中国の指導力が強まっている。<王柯『多民族国家 中国』2005 岩波新書 p.203-205 >
この五ヵ国に共通するテロの脅威とは何か。それは中国の新疆ウイグル自治区のウイグル人の独立運動(東トルキスタン独立運動)である。ウイグル人は新疆だけでなく中央アジアに広く居住し、彼らが独立した民族国家を建設することは、この五ヵ国にとっては脅威なのだ。また、中央アジアのイスラーム教徒はほぼスンナ派だが、アフガニスタンやイランにも隣接しており、イスラーム原理主義が浸透する畏れは十分にある。こうして、テロリズム・分離主義・イスラーム極端主義の脅威三点セットがこれらの国々を和解させ、長く燻っていた国境問題を妥協的に解決させたのだった。