(1)トルコ系民族
内陸アジアの西アジア一帯に広がったアルタイ語に属する民族。内陸アジアの広大な草原で騎馬遊牧民として多くの部族を構成し、世界史上様々なトルコ系民族が興亡し、民族移動を繰り返した。現在のトルコ共和国は民族的にはその後継者であるが、かつてトルコ民族が活動していた地域ではないので注意すること。
- (1)トルコ系民族の遊牧帝国
- (2)中央アジアのトルコ化
- (3)トルコ系民族のイスラーム化
- (4)トルコ系国家の興亡
トルコ系民族の遊牧帝国
もともとトルコ系民族はアルタイ山脈付近で遊牧生活を送っていた。世界史上のトルコ系民族は、まず中国史料に現れる。前3世紀頃、匈奴に服属していた丁零(丁令、丁霊とも書く)が最初で、後に高車と言われるようになる。彼らはモンゴル系の柔然に服属していたが、552年にアルタイ山脈西南から出たトルコ系の突厥が柔然を滅ぼしてその王の称号である可汗を称し、モンゴル高原からカザフスタン草原・黒海北方までの広大な領土を持つ大帝国を築いた。突厥以外のトルコ系民族は中国史料では鉄勒と言われた。583年、突厥は東西に分裂し、東突厥と西突厥はそれぞれ7世紀中ごろまでに唐に制圧され、中央アジアには唐の勢力が及ぶこととなった。突厥は一時復興し(第二帝国、682~744)、突厥文字という北方アジア・トルコ系遊牧民最初の文字を持った。突厥文字は19世紀末に発見されたオルホン碑文に見ることができ、その解読によってトルコ系民族の歴史も明らかになってきた。トルコ系民族のまとめ
登場した民族と国家をあげると、丁零→高車→鉄勒→突厥→ウイグル→キルギス→カラハン朝→ガズニ(ガズナ)朝→セルジューク朝→ホラズム→トルコ=イスラーム文化→オスマン帝国→現代のトルコ共和国となろう。これ以外にも中央アジアにはいくつかのトルコ系国家がある。また、現在の中央アジア5ヵ国のカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの各共和国、アゼルバイジャンなどカフカス地方の国はトルコ系民族であり、ロシア連邦内のタタールとバシキールの自治共和国もトルコ系住民でイスラーム教徒が多い。トルコ系民族は以上のような長い歴史と広い活動範囲を持ち、ユーラシア大陸の東から西へ大移動を展開した民族として重要である。
Episode トルコの建国は552年
現在のトルコ共和国でも、突厥の成立をもってトルコ国家の建国と意識されており、1952年には、トルコ共和国で「突厥建国1400年記念祝典」が盛大に催された。552年は、トルコ民族が世界史上で最初の遊牧騎馬民族国家を建国した年で、今日のトルコ共和国もその建国をそこまでさかのぼらせている。<護雅夫『古代遊牧帝国』1976 中公文庫 p.5>出題 2011年 大阪大学 第3問
問1 ムスタファ=ケマルの出身母体である民族の本来の故郷と生業、そこからの民族大移動の流れを踏まえて、彼による文字改革以前の文字の名称とそれを使用するようになった歴史的経緯を、その文字の背景にある宗教を受容した時期にも注意を払いながら、大まかに述べなさい。その際、次の用語をすべて使用し、さらに彼の生まれた時代の王朝名と、彼による文字改革以前と以後の文字にまで言及しなさい(300字程度)。モンゴル高原 カラハン朝 セルジューク朝 バグダード
解答
トルコ民族はモンゴル高原で遊牧を生業としていたが、8世紀ごろウイグル国家が滅亡し、パミール高原西部に移住してトルキスタンで定住生活をおこなうようになった。10世紀に成立したカラハン朝の時、イスラーム教を受容するとともにアラビア文字を使用するようになり、11世紀のセルジューク朝は西アジアに侵出してバグダードに入城し、西アジアから北アフリカ、バルカン半島を支配する大帝国となった。しかし、19世紀にはヨーロッパ列強の侵略によって領土を失い、第一次世界大戦後にトルコ革命で倒された。トルコ共和国の指導者ケマルパシャは近代化政策の一環として文字改革を行い、アラビア文字を廃止してローマ字を使用することとした。
(2)中央アジアのトルコ化/トルキスタンの成立 トルコ人の西方定着/
トルコ人がモンゴル高原から移動しトルキスタンに定着した過程。
(3)トルコ人のイスラーム化
8世紀以降のトルコ人がイスラーム化した過程。
それがさらに進んだのが、751年のアッバース朝と唐帝国が戦ったタラス河畔の戦いでアラブ軍が勝ったことであった。またトルコ人は、アッバース朝以降のイスラーム諸王朝で、
トルコ系イスラーム国家の自立
9世紀にバグダードを中心としたアッバース朝イスラム帝国の統制が弱まり、西トルキスタンにイラン人の独立政権サーマーン朝が成立、つづいて10世紀末に最初のトルコ系イスラーム国家のカラハン朝朝がサーマーン朝を滅ぼして東西トルキスタンを支配することによって、この地の「イスラーム化」がさらに進んだ。カラハン朝時代にはカシュガリーの『トルコ語辞典』が編纂されており、トルコ=イスラーム文化の出発点となっている。カラハン朝はその後、東西に分裂して衰え、12世紀中ごろ、東方から移動してきた契丹族のカラ=キタイ(西遼)に滅ぼされた。また、アフガニスタンにはサーマーン朝のマムルークが建国したガズニ(ガズナ)朝が成立、しばしばインドに進出し、インドのイスラーム化が進んだ。(4)トルコ系諸国の興亡
11世紀のセルジューク朝以降のトルコ人の国家の興亡。
セルジューク朝の小アジア進出
西トルキスタンに起こったトルコ系部族の一つセルジューク朝が11世紀に西アジアに進出、イスラーム化しながら小アジアのアナトリアに移住して国家を形成した。セルジューク朝時代はイラン人が官僚や知識人として活躍し、イラン=イスラーム文化が成立した(後のイル=ハン国時代に継承される)。ホラズム地方(アム川下流)にはセルジューク朝から分離独立したホラズムというトルコ人のイスラーム王朝も生まれた。モンゴル帝国とそのハン国
キルギスやホラズムなど中央アジアから西アジアのトルコ系イスラーム国家は13世紀にいずれもモンゴル帝国に征服された。1227年のチンギス=ハンの死後、モンゴル帝国の分裂が始まり、中央アジアではチャガタイ=ハン国、西アジアではイル=ハン国、カスピ海から黒海の北岸、ロシア平原はキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)のモンゴル人の支配を受けることとなった。これらのモンゴル人国家はイスラーム化したイラン人とトルコ人に支えられていたため、やがてモンゴル人支配層もイスラーム化していく。ティムール帝国とオスマン帝国
中央アジアでは14世紀にモンゴル=トルコ系のティムール朝が成立、この時代にイラン人を通してイスラーム文化を受容し、トルコ=イスラーム文化が開花した。一方、小アジア(アナトリア)ではセルジューク朝の衰退に乗じてトルコ部族を率いたオスマンが建てた小国家が次第に強大となり、西アジアから東ヨーロッパにかけてオスマン帝国を建設し、14~19世紀まで繁栄する。現在のトルコはその後身である。ロシア草原ではキプチャク=ハン国は次第に衰え、クリミア半島には15世紀のその分国としてトルコ系のタタール人がクリム=ハン国を建国した。クリム=ハン国はやがてオスマン帝国の保護下に入る。
ティムール帝国衰退後のトルコ系国家
中央アジアでは16世紀の初めのティムール朝の衰退と前後して、カザーフ、キルギス、ウズベク、新ウイグルという現在の中央アジア諸国につながるトルコ系民族社会が生まれた。ウズベク人はシャイバニ朝を建国し、その後、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国に分かれて抗争するが、封建的な部族社会が続き、近隣のロシア人やイラン人、あるいはトルクメン人など捕虜を奴隷として売買することが盛んに行われていた。ロシアの南下政策
18世紀にはロシアの南下政策が強まり、黒海北岸、クリミア半島のクリム=ハン国が1783年にロシアに征服された。19世紀には、オスマン帝国の衰退はヨーロッパ列強の介入を強め東方問題といわれるようになった。ロシアの中央アジアへの侵出はブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国の三ハン国にその目標が定められ、トルコ系民族国家の領域は次々と奪われていくこととなる。
パン=トルコ主義
オスマン帝国は第一次世界大戦に参戦して敗れたが、参戦を主導した青年トルコの指導者エンヴェル=パシャは、敗戦後に中央アジアに現れ、パン=トルコ主義を掲げて中央アジアのトルコ系民族の自立と統一を目指す運動を起こした。彼はソヴィエト政権に対するトルコ系民族の反革命運動であるバスマチ運動に加わったが、1921年に戦死し、中央アジアのトルコ系民族はソ連邦に組み込まれることとなる。それによってパン=トルコ主義も衰退したが、中央アジアのトルコ系民族の中にはなおもその思想は継承されている。