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張騫

漢の武帝が匈奴を挟撃するため西方の大月氏に派遣した使者。匈奴に捕らえられながら脱出し、13年かかって帰る。大月氏国との同盟はならなかったが、大宛など西域に関する多くの情報をもたらした。第2回の遠征では烏孫の到達した。

 ちょうけん。前2世紀後半、武帝の時代に活躍した人で、中央アジアの大月氏国大宛(フェルガナ)などに二度にわたって旅行して西域に関する多くの情報をもたらし、漢の西方への勢力拡大に大きく貢献した。

匈奴と大月氏国

 張騫に第1回目の大旅行は、正式な出発の記録はないが、武帝の即位の翌年にあたる前139年ごろと思われる。武帝は曾祖父の高祖が匈奴王冒頓単于から受けた屈辱を晴らすことを願っていたところ、もと甘粛地方にいた月氏が、匈奴に追われて西方に逃れて作っている大月氏国と提携して、匈奴を挟撃できるという情報を得て、張騫を派遣することとなった。 → 張騫のルートについては漢帝国の領域 地図参照

張騫の第1回旅行

 大月氏国との同盟を結ぶことを目指して西方に向かった張騫であったが、途中で匈奴に捕らえられ、10年も過ごさなければならなかった。その間、俘虜として生活しながら匈奴の女性と結婚、一児を設けたという。ようやく匈奴のもとを脱し、前129年ごろ大月氏国に到達した。しかし、大月氏国側は、匈奴と戦う意図はすでになく、同盟を結ぶことはできなかった。長安に帰る途中も、再び匈奴に捕らえられてしまったが、そこで匈奴の妻子と再会、1年ほど過ごした後、たまたま軍神単于(冒頓単于の次の単于)が亡くなって混乱している隙に、妻子を伴って脱走し、前126年、13年ぶりに長安に帰着した。
 張騫の大旅行は大月氏国との同盟という目的は達せられなかったが、途中に見た大宛(フェルガナ)の汗血馬の話など、西域に関する多くの情報をもたらした。漢はちょうどそのとき、将軍衛青の指揮の下、本格的な対匈奴作戦を開始していた。張騫も衛青に従って対匈奴作戦にも従軍した。

Episode 張騫の胡妻

(引用)出発のとき百人あまりだった使節団員のうち、帰ったのは張騫本人と、彼の匈奴出身の妻、同じく匈奴出身の部下堂邑の三人だけであった。『史記』大宛列伝には、張騫の妻について、「胡妻」とだけ書かれている。ここでいう「胡」とは、匈奴のことをさしている。僻地を旅するとき、女性の同行者がいると、平和的な雰囲気をかもしだし、現地の住民も気を許すものだ。張騫にとっては身の安全のためでもあったのである。……張騫の「胡妻」は、彼女自身の残した記録はないが、匈奴出身の女性として大いに張騫を扶けたと考えられる。中国最初の女性探検家と言えるかも知れない。また私は、司馬遷がその『史記』の中で、張騫の補佐役としての「胡妻」と、胡人である堂邑氏甘父のことをきっちり書きこんでいることに注目したい。司馬遷という偉大な歴史家は、彼らに感謝し、この時代においてすでに、中国が多民族の国であり、中国が生きる道は多民族との共存しかないことを明確に意識していたのではないか、と思われる。<加藤九祚『シルクロードの大旅行家たち』1999 岩波ジュニア新書 p.19>

張騫の第2回旅行

 張騫は大月氏との同盟が実現できなかったので、次に同じく中央アジアの遊牧氏族烏孫国との同盟を構想し、武帝に提言した。武帝もそれを入れて、前119年、張騫は二度目の大旅行に出発した。無事に到着したが、烏孫国では王が年老いて、王子たちが争っており、政情不安が続いていた。また匈奴に対する恐怖、漢の力について知らないうという理由でただちに同盟とはならなかった。前115年、張騫は烏孫国の使節などを伴って長安に帰った。同盟には至らなかったが、漢の西方進出にとって有利な情勢が生まれた。帰国後の前114年、張騫は死去した。

西域との交通の打開

 張騫の遠征によって、大月氏や大宛、烏孫などの実態が報告され、西方との交易の道が開かれ、武帝は本格的な西域経営に乗り出すこととなる。また張騫の活動は、後漢時代の班超甘英などの先が期となり、唐の頃に盛んになるシルクロード交易の基礎が築かれたと言うこともできる。