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オアシス都市/オアシス国家

砂漠で地下水が湧き出て、農耕、人間の居住が可能なオアシスに生まれた都市。及びオアシス都市間に形成された国家。東西トルキスタンの乾燥地帯に典型的に見られ、シルクロード、オアシスロードと言われる交易路で結ばれていた。

 砂漠地帯で、地下水が地表に湧き出る場所がオアシスである。広大な砂漠の地下にも、遠く離れた降雨地帯の雨水が地下水となって地下水脈を流れ、ところどころで地表に湧き出ている。そのようなオアシスは砂漠を旅する人々にとって命をつなぐ場所であり、人々は砂漠の島のようなオアシスをたどりながら移動した。そのルートがオアシスの道(シルクロード、絹の道)である。大きなオアシスには周辺にナツメヤシなどの作物を耕作することもでき、農耕民や商人が定住して、オアシス都市を形成した。

オアシス都市

 砂漠地帯のオアシスに形成された都市。中央アジアの東西トルキスタン、西アジアのアラビア半島、アフリカのサハラ砂漠など広大な砂漠のなかにもオアシス都市が見られる。中央アジアではシルクロードに多くのオアシス都市が点在している。それらオアシス都市は、東西貿易の拠点となるので、常に周辺の民族の興亡の影響を受け、政治的には不安であった。敦煌高昌国(トゥルファン)亀茲(クチャ)于闐(ホータン)疏勒(カシュガル)などが代表的なオアシス都市である。

出題

 08年 早稲田大文化構想  オアシスに関連する次の文章のうち、誤りを含むものはどれか。
 ア.オアシスには河川の雪どけ水や地下水を耕地の灌漑に利用するものが多い。
 イ.オアシスは、ふつう、寺院やバザールのある市街地と農業が営まれる農村部からなる。
 ウ.オアシスは隊商交易の中継地として、東西交易に重要な役割を果たした。
 エ.オアシスの民は、東西交易路の支配権をいつも保持し、東西交易の利益を享受した。

解答

オアシス国家

 オアシスは「砂漠における可耕地のひろがり」といえるが、この可耕地ののなかに村や町と呼べる集落や都市があり、また周辺は草地や沼沢地が続き、その外側に砂漠が広がっている。オアシス社会とかオアシス国家とは、このような「砂漠における可耕地の広がり」及びその周辺地を生活基盤とする社会や、それがつくる国家のことである。
 この社会や国家を支える経済基盤は、本来、農業と牧畜業であったが、同時にオアシスの耕地は限界があるので、農牧業以外の商人や商工業などの非農牧民も存在し、他のオアシス社会、国家と交易を行った。社会、国家を支えたのはそれらの複合的な基盤であったと考えられる。
 オアシス国家が形成されたのは東西トルキスタンであるが、その性格に次のような違いがある。
タリム盆地周辺のオアシス国家 天山山脈と崑崙山脈にはさまれたタリム盆地(東トルキスタン=現在の新疆ウィグル自治区)の周縁部には、クチャホータン(コータン)、カシュガルなど大きなオアシス都市があり、前漢以来、中国内地と結びつきを強め、オアシス国家を形成した。オアシス国家は最高統治者たる世襲の王――高昌国の麹(きく)氏、ホータンの尉遅(うっち)氏がその例――に支配されており、王の居城となったオアシス都市を中心に周辺に点在する大小のオアシスをその支配下に収めた。すでに紀元前後にはタリム盆地周辺だけでも「三十六国」とも「五十五国」ともけいわれるほど多くのオアシス国家が分立したが、その後は高昌国、焉耆(えんぎ)国、亀茲国、疏勒国、于闐国、鄯善国に統合された。これらのオアシス国家の人口は数万のサイズが標準で最大でも10万、兵士の率は高かったと思われる。これらのオアシス国家に共通することは仏教が篤く信仰されていたことがあげられるので、僧侶も数千人規模で存在した。
ソグディアナのオアシス国家 ソグディアナ西トルキスタン)は、オアシス国家というより都市国家と言った方が適切であり、サマルカンドのような大規模なものもある。ただそれ以外はタリム盆地周辺国家と同じ規模であった。ソグディアナのオアシス国家の王若しくは領主は、必ずしも世襲ではなく大富豪の代表者という性格が強く、サマルカンドを中心にオアシス国家同士がゆるやかに結びつき国家連合を形成した。そのためサマルカンドのトップリーダーは「ソグド王にしてサマルカンドの領主」と呼ばれた。最も注目されるのは、それぞれのオアシス国家が広域にわたるキャラヴァン交易を行う国際商人を輩出したことである。国際商人を生んできたこの地では、合理的な雰囲気が社会に醸成されていた。一方のタリム盆地周辺のオアシス国家には国際商人といえる存在は確認できない。<荒川正晴『オアシス国家とキャラヴァン交易』世界史リブレット62 2003 山川出版社 p.7-10>