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朱元璋/洪武帝

貧農に生まれ、元末の紅巾の乱に加わって頭角を現し、転じて反乱を鎮圧する側に廻り、1368年に明を建国して初代皇帝となった。廟号は太祖、諡号が洪武帝。都は南京。皇帝権力の専制化に努め、儒教道徳の強化などを行った。

 朱元璋は、貧農から身を起こし、の初代皇帝となった人物。1368年に明を建国し、皇帝としては廟号を太祖、諡号(おくり名)を洪武帝という。中国の歴史上、農民から皇帝になったのは漢の劉邦(高祖)と朱元璋の二人である。

紅巾の乱に加わる

 朱元璋は1328年安徽省の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。17歳の時、飢饉で両親と長兄を亡くし、兄弟も離ればなれになった。彼は食うために出家して寺に入ったが、寺も食料が乏しく、乞食僧となって放浪しなければならなかった。24歳の時、紅巾の乱が起こると、郭士興という首領の一人が率いる白蓮教の反乱軍に加わった。ただし、彼自身が白蓮教徒であったかどうかはわからない。その中で頭角を現し、独立した部隊を率いて、1356年に長江下流の旧都建康を占領、応天府と改称した(後の南京)。

乱の鎮圧に転化

 1364年には呉王を称して紅巾軍と袂を分かち、地主や知識人階級と結んで農民反乱の鎮圧側にまわり、白蓮教の指導者韓林児をだまし、長江に沈めて殺害した。1367年、を討つための北伐を開始、1368年南京で即位して、国号を明とし、洪武帝(太祖)となった。
 朱元璋と同じ時期に西アジアの大半を征服したのがティムールである。またヨーロッパでは百年戦争教会大分裂、日本では南北朝時代にあたり、同じ1368年には室町幕府の足利義満が将軍になっている。

朱元璋の基盤

 朱元璋の反乱の基盤となった地域は、南宋以来の江南の開発によって生産力が高まっており、の支配も十分に及んでいなかった。元の支配下においても漢人地主による大土地経営が行われ、多くの農民は佃戸=小作人として搾取される立場にあった。紅巾の乱は貧しい農民の弥勒仏の来臨を待ち望むという白蓮教信仰を紐帯として広がったが、朱元璋自身も貧民の出身であり、はじめは紅巾の賊に加わった。地主層はその攻撃の対象になったので、反乱軍と戦ったが、本来彼らを守るべき元軍にはすでにその力はなく、地主層は次第に反乱軍のなかから新たな権力を見いだそうとするようになった。それと結びついたのが朱元璋であった。朱元璋軍は他の紅巾軍と異なり、規律も厳しく、その幕下には李善長のような儒学者もいたので、勢力を強めると友に白蓮教色を薄めてゆき、地主層も元に代わる新たな権力として朱元璋を支持するようになった。つまり、朱元璋は、モンゴル人の支配と地主による搾取という二重の苦しみの下にあった江南の農民を組織して元に対する反乱へと導き、途中から豊かな江南の生産力をもつ地主層を支持基盤として新たな農民統治権力を作り上げた、と言うことができる。

Episode 皇帝の過去、二つの肖像

朱元璋b 朱元璋a
 権力を握った朱元璋、つまり洪武帝は、消さなければならない過去があった。それは自分がかつて乞食僧であったことだった。その過去を抹殺しようとして、僧侶を思わせる文字、「光」や「禿」を特に嫌い、それら文字を使うことを禁止した。うっかりそれらの字を使ってしまうと厳罰が与えられた(文字の獄)。
 また朱元璋の肖像には、「厳粛で端正な顔立ちで、いかにも儒教の理想とする帝王らしい威徳をそなえたもの」と「満面あばたで馬のようにあごが発達し、見るから醜悪な人相をしている」ものの二種類がある。実像は後者に近く、前者は皇帝の権威を飾るために描かれたものあろう。図の右側が皇帝洪武帝として描かれた朱元璋、左側が隠された実像である。並べてみると、とても同一人とは思えない。<貝塚茂樹『中国の歴史』下 岩波新書、高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書など>

洪武帝の統治

朱元璋は1368年に即位し明を建国、諡を洪武といい、一世一元の制なので年号ともあった。皇帝独裁権力の強化に努め、30年間統治して98年に死去した、

 1368年南京で即位した朱元璋は、国号を、年号を洪武とした。これ以後、年号がそのまま皇帝の諡(おくり名)となる一世一元の制がとられることとなる。廟号は太祖。在位1368年~98年。モンゴルの支配と元末の騒乱で荒廃した国土の復興と、皇帝権力の強化に努め、彼がうちたてた皇帝独裁のもとでの中央集権体制という政治体制は、明と次の清の約600年に及ぶ中国の支配体制として辛亥革命で清が倒れるまで存続した。
 また対外政策では1371年海禁政策を採って貿易は朝貢貿易のみを認め、中華帝国の再現を図った。
 1398年に死去すると皇太孫が16歳で即位し建文帝となったが、帝位をめぐる靖難の役が起き、明は一時動揺したが、その内戦に勝利した洪武帝の弟の燕王が永楽帝として即位し、洪武帝の皇帝専制政治体制を継承・強化し、明の全盛期を現出させた。

皇帝専制政治体制の樹立

 皇帝独裁(専制政治)体制をつくりあげるため、1380年には中書省廃止六部を直接統括することとした。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなった。また、軍事体制では衛所制を設け、軍戸から一定数の兵士を徴発し、都指揮使に統率させ、明朝の正規軍とした。

農村の復興策

 洪武帝は、モンゴルの支配と元末の農民反乱で荒廃した農村の回復に努め、漢民族社会の農業生産を掌握するため、里甲制という行政組織を整え、租税台帳として賦役黄冊を作成、さらに土地台帳として魚鱗図冊を全国土で作成して、租税徴収体制を作り上げた。

中華帝国の再建

 明律明令の制定するとともに、朱子学の理念に基づいた道徳規範として六諭の頒布するなどで体制の維持をはかった。皇帝の絶対的な権威のもとで農業社会を治めていくという、中華帝国の再建を目指し、宋・元の貿易推進策をやめて海禁政策を採り、諸外国には朝貢貿易のみを認めた。

Episode 洪武帝、一日に632件を処理

 貧農から身を起こし、皇帝に上りつめた洪武帝は、権力の一切を皇帝に集中させる専制政治を作り上げた。その過程で、建国の功臣でもいささかでも疑わしいところのあるものを次々に粛清した。1380年の「胡惟庸の獄」(朱元璋時代の第一の腹心の部下であった胡惟庸という人物を権力を簒奪しようとしたとして捕らえた)では1万5千人が、さらに1390年にはその陰謀が再燃したとして1万5千人が捕らえられ、処刑された。
 専制政治を追求した洪武帝は、中書省を廃止、六部を直接統括し、行政文書はすべて自分で決済した。一説に拠れば、一日平均632件の案件を皇帝として裁決したという。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなる。洪武帝自身は宦官の政治関与を厳しく禁止していたが、やがて永楽帝の時代になると、宦官は重く用いられるようになり、明の内政・外征に介入するようになっていく。
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高島俊男
『中国の大盗賊・完全版』
講談社現代新書