靖難の役
1399~1402年の明の洪武帝死後の帝位継承の争い。南京の第2代建文帝に対し、北平(後の北京)の叔父燕王朱棣が「君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる」ことを口実に挙兵し、最終的に燕王が勝利し、1402年に永楽帝として即位した。
せいなんのえき。靖難の変ということもある。1399年から1402年の明の二代皇帝建文帝とその叔父燕王朱棣(しゅてい)の帝位をめぐる争い。燕王は太祖洪武帝の第4子で、武勇に優れていたので、対モンゴルの要衝である北平(現在の北京)に封じられていた。洪武帝は長男の朱標を皇太子としていたが、その皇太子が先に死んでしまい、その子を皇太孫とした。1398年に洪武帝が死去し、皇太孫が即位し、建文帝となった。建文帝は皇帝権力の強化を図り、有力者の領地の削減を打ち出したのに対し、北平の燕王が反発して挙兵した。燕王が挙兵の理由として、「君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる」、つまり建文帝の側近の奸臣をとり除き朝廷の危機を乗り切るということを掲げたので、「靖難の役」(役は戦争の意味)という。要するに叔父と甥の戦いであるが、まる4年間を要する内戦となり、1402年に南京城が陥落し、建文帝が敗れて自殺、燕王の勝利で終わった。燕王は同年即位して成祖永楽帝となった。
なお、靖難の役と「靖康の変」(1127年、金が北宋を滅ぼした戦い)を取り違えないこと。
靖難の役の二年目、形勢は政府軍有利に進み、第3回目の北平総攻撃が行われた。しかし燕王軍の反撃を受けて失敗し、済南に退いた。燕王は自ら兵を率いて済南城を攻撃、城外を流れる川をせき止め水攻めにしたため政府軍は危機に陥った。そのとき、文官の山東参政であった鉄鉉(てつげん)は一計を案じ、降伏するふりを装って燕王を城内に招き入れ、城門に入ったとたんに鉄板を頭上から落として燕王を殺そうとした。しかし鉄板の落下が一瞬早く燕王の馬の鼻ずらをかすっただけに終わり、燕王は助かった。命からがら自陣に戻った燕王は怒り狂い、総攻撃を命令。燕王軍が一斉に済南城に砲撃を開始すると、今度は鉄鉉は城壁高く太祖洪武帝の神牌を書いて掲げた。太祖の神牌に大砲を向けることは叛逆の意思を内外に示すことになる。さすがの燕王も閉口して、砲撃を中止させた。鉄鉉は燕王軍の攻撃が止むと突撃隊を繰り出し、大きな損害を与えたので、燕王はやむなくいったん北平に退かざるをえなかった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.92-95>
なお、靖難の役と「靖康の変」(1127年、金が北宋を滅ぼした戦い)を取り違えないこと。
靖難の役の実情
靖難の役は、勝利者となった永楽帝のイメージから、短期間にその圧倒的な勝利で決着した、と捉えられがちであるが、実情はそうではなかった。北平で挙兵した燕王朱棣は、南京の宗家の皇帝に反旗を翻したのであるから、儒教の理念からすれば「大義名分」のない、叛逆でしかなかった。そこで朱棣は「君側の奸」を除くのが挙兵の目的であると言わざるを得なかった。当時の価値観から言えば、圧倒的に建文帝側に正義があったのであり、燕王の立場には弱いものがあった。しかし、建文帝自身にも弱気な性格からか、叔父である燕王に対する遠慮と、その武勇に対する恐れがあったため、決然たる態度をとれず、北伐軍に対しても「燕王の命を取ってはいけない」と命令する始末だった。双方に戦争に対する正当性と、勝利への自信がないまま始まったため、この内戦は3年以上かかることとなってしまった。<靖難の役については、寺田隆信『永楽帝』中公文庫が詳しい。>Episode 文官鉄鉉の戦い
燕王(後の永楽帝)軍と建文帝の政府軍との戦いの過程はなかなか面白いが、その中からひとつだけ紹介しよう。靖難の役の二年目、形勢は政府軍有利に進み、第3回目の北平総攻撃が行われた。しかし燕王軍の反撃を受けて失敗し、済南に退いた。燕王は自ら兵を率いて済南城を攻撃、城外を流れる川をせき止め水攻めにしたため政府軍は危機に陥った。そのとき、文官の山東参政であった鉄鉉(てつげん)は一計を案じ、降伏するふりを装って燕王を城内に招き入れ、城門に入ったとたんに鉄板を頭上から落として燕王を殺そうとした。しかし鉄板の落下が一瞬早く燕王の馬の鼻ずらをかすっただけに終わり、燕王は助かった。命からがら自陣に戻った燕王は怒り狂い、総攻撃を命令。燕王軍が一斉に済南城に砲撃を開始すると、今度は鉄鉉は城壁高く太祖洪武帝の神牌を書いて掲げた。太祖の神牌に大砲を向けることは叛逆の意思を内外に示すことになる。さすがの燕王も閉口して、砲撃を中止させた。鉄鉉は燕王軍の攻撃が止むと突撃隊を繰り出し、大きな損害を与えたので、燕王はやむなくいったん北平に退かざるをえなかった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.92-95>
Episode 靖難の役の番外編
明が靖難の役で内乱状態になったことは、周辺諸国にも影響を与え、北方のモンゴルが再び優勢となった。また、遠く西アジア一帯を征服しティムール帝国を立てたティムールは、明がモンゴルを討ったことに対し、復讐の機会をねらっていたが、靖難の役が起こったことを知り、明を叩く好機ととらえ、1404年、急遽20万の大軍を率いて明遠征に出発したが、翌年、途中のオトラルで急死し、ティムールと永楽帝という両雄直接対決は実現しなかった。靖難の役と東アジアの情勢
元から明への交代、そして明初の靖難の役の動乱は、日本を含む東アジアにも大きな影響を及ぼしている。元明交代期は日本では室町幕府の統制が不十分で南北朝の内戦が深刻となり、そのような状況の中で倭寇(前期倭寇)の活動が活発になった。倭寇の活動は朝鮮半島の高麗を動揺させ、倭寇撃退に功のあった李成桂が朝鮮王朝を建てた。その1392年、室町幕府の足利義満は南北朝の統一に成功した。国際的な認知を得る必要のあった義満は、倭寇禁圧を条件に明と国交を開こうとして、1401(応永8)年に「日本准三后道義」と称して使節を派遣した。その時の皇帝は建文帝だったが、すでに南京で朱棣が挙兵、靖難の役が始まっていた。建文帝が義満を「日本国王」に冊封した使節が日本に着いた頃には既に建文帝は追いつめられていた。義満は再び国書を送ろうとしたが、建文帝と永楽帝(朱棣)のいずれが明の覇権を握るか判断がつかなかったので国書を二通作って使者を派遣した。その使者がついた1402年には永楽帝が即位しており、早々と義満が国書を提出したことを喜び、国交を開き、勘合貿易を開始することになったのだった。