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文字の獄

清の時に行われた、反清朝的な言論を封じる言論弾圧。反清朝とみなされた文章や文字の使用が厳しく取り締まられた。

 中国の歴代王朝では、王朝の支配に疑念をはさむような言論、出版はたびたび弾圧され、禁書の処置がとられた。秦の始皇帝の焚書・坑儒も一種の言論弾圧であった。文書の中の文字の使用についても、朝廷の権威を穢すような用例は厳しく取り締まられ、その罪を犯したものが処罰されることがあった。これを文字の獄(もんじのごく)といい、明の洪武帝は頭髪が薄かったので「禿」や「光」の字のある書物を取り締まった例がある。しかし、特に徹底して行われたのが康煕帝、雍正帝や乾隆帝の時代であった。

雍正帝の「文字の獄」

 清朝は反清朝、反満州人の内容の図書を厳しく取り締まった。たとえば、雍正帝の時、内閣学士の査嗣庭が科挙の試験で出題した「維民所止」(これ民のおるところ)という4字が、維は雍の、止は正の首をはねたものだとして投獄し、獄中で病死するとその死体をさらし、その子を死刑にしたという。また朱子学者の呂留良は、清朝を夷狄が建てた王朝であり、中国史上最も暗黒の時代であると論じていた。その死後、問題とされ雍正帝はその棺を暴いて改めて斬首し、首を獄門に曝し、子と弟子は死罪、一族は奴隷の身分に落とした。

乾隆帝の「文字の獄」

 乾隆帝は62歳の時、全国から典籍を集め、四庫全書の編纂に着手、天下に古今の群書の提出を命じた。江南地方は文化程度が高く、多くの典籍が集まるものと期待されていたが、予想に反して応募が少なかった。現王朝を夷狄視する禁句があるために提出を恐れているのではないかと疑った乾隆帝は、江南に的を絞って十五回にわたる上諭を発し、その結果数万冊の書籍を徴発し、不敬な文字があるとしてすべて焼却した。その理由は言いがかりに等しいもので、たとえば「一世に日月無し」とあれば、日と月を併せて明の文字になることから、明朝を追慕するものであるとするような事例であった。<入江曜子『紫禁城―清朝の歴史を歩く』2008 岩波新書 p.50-51,63>

参考 現代の「文字の獄」

 現代中国で民主化運動を進める劉曉波は、2010年のノーベル平和賞を受賞した。劉氏は1989年の天安門事件(第2次)で民主化運動に加わって投獄され、出獄後はジャーナリストとして活動、2008年には中国での人権抑圧、支持活動の制限を厳しく批判し、民主化を強く求めた「08憲章」を発表した。2010年に政権転覆扇動罪で投獄されたが、同年にノーベル平和賞を受賞した。12月にはノルウェーのオスロで平和賞の授賞式が行われたが、中国政府は彼の出獄を認めず、獄中で受賞することとなり、式典では彼の文章が代読された。その中に次のような文があった。
(引用)私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害を受けたりはしない。
 私は期待する。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄」の最後の被害者となることを。<朝日新聞 2010年12月11日国際面記事より>
 劉暁波は、そのまま釈放されることなく獄中生活を続け、獄中で肝臓癌が発症し、2017年7月13日に死去した。北京で自宅軟禁状態であった妻の劉霞は18年7月に出国が認められ、ドイツに移住している。この間、中国で劉暁波追悼デモが行われた。
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