辮髪/弁髪・辮髪令/弁髪令/薙髪令
頭髪をそり上げ、一部を残して三つ編みに下げる髪型が辮髪。清王朝が漢民族に強制した。
辮髪(弁髪)は男子が頭髪を剃り、後頭部だけを長く伸ばして編み、背後に長く垂らす髪型のこと。辮髪の辮は「編む」と同じ意味である。北方狩猟民である女真(満州人)の風俗であった。ツングース系の女真の建てた王朝である清は、1644年、北京に入城すると、まず占領地で降伏した漢民族に、服従の保証としてこの髪型にすることを強要した。
弁髪令(辮髪令)
さらに幼帝順治帝のもとで実権を握っていた叔父のドルゴンは、1645年、南京を制圧して中国本土をほぼ統一すると、ただちに辮髪令(弁髪令、薙髪令=ちはつれい、ともいう)を定め全国にその徹底を命じた。「頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず」と書かれた制札をかかげ、僧侶と道士(道教の出家者)を除き、10日以内に弁髪にせよ、という厳しいものであった。漢人は各地で反発したが、抵抗するものは殺され、やがて弁髪はごく自然な中国の風俗として定着し、中国人と言えば弁髪というイメージが定着した。太平天国の辮髪禁止
清朝末期には辮髪が中国男性に一般化していたが、1851年に清に反旗を翻した洪秀全が樹立した太平天国では、満州人の習俗である辮髪を嫌って髪を伸ばした。そこで清朝側は太平天国を長髪賊(または長毛)と言った。なお、長髪族という呼称は一般化しており、「太平天国」といわれるようになったのは、後の1930年代初めのころからである。清朝末期の辮髪
清朝末期の革命派は、辮髪を断つことによって清朝への抵抗の姿勢を示した。例えば、孫文は1896年、31歳の時、広州での挙兵に失敗して日本に亡命した時に、辮髪を切っている。<藤村久雄『革命家孫文』中公新書 p.32>Episode 魯迅の辮髪
二〇世紀の中国を代表する作家魯迅の短編「髪の話」(1920)の一節に次のような記述が見られる。(引用)ねえ、きみも知っているだろ、髪の毛ってのは、われわれ中国人には、宝でもあるし仇でもあるあるんだよな。昔からどれだけたくさんの人が、そのために理由のない迫害を蒙ったことか!これは作中の人物の口を借りた、魯迅の述懐であろう。魯迅自身は1902年に20歳で日本に留学した翌年、弁髪を切り落としている。しかし、一時帰国したときは周りの目を気にしてか、辮髪のカツラを買ってかぶっていたという。弁髪を切ることが清朝への抵抗を示す意味があったが、それを実行するには相当の覚悟がいったことが窺える。なお、魯迅の作品には辮髪など、旧い習慣に縛られ、そこからどう脱却するか苦悩する辛亥革命前後の中国社会を観察し、告発したものが多いので、ぜひ読んでおきたい。<参考 丸山昇『魯迅 文学と革命』東洋文庫 1965 / 劉香織『断髪 近代東アジアの文化衝突』朝日選書 1990>
中国でも大昔は、それほど髪の毛をありがたがらなかったようだね。刑法からいうと、いちばん大切なのはむろん首だから、大辟(死刑のこと)が極刑だった。次に大切なのは生殖器だから、宮刑や幽閉もおそろしい刑罰だった。髠(コン。髪を剃ること)なんてのは、ごく軽い刑罰さね。ところが考えてみると、坊主頭のためにどれだけたくさんの人が世間から一生を踏みにじられたことだろう。
われわれは革命をとなえたころ、よく揚州十日や嘉定屠城(いずれも明滅亡の時の清兵の残虐行為)のことを口にしたが、あれは単なる方便さ。ほんとはあの明末の中国人だって、亡国がいやだからではなくて、辮髪を垂らすのがいやだっただけさ。
あくまで抵抗するやつはみんな殺され、遺老(前王朝を大事にし新王朝に仕えないもの)は天命をおえ、こうして辮髪が通り相場になったあと、今度は洪楊の乱(洪秀全、楊秀清の乱、つまり太平天国の乱)だ。ぼくの祖母が話してくれたことだが、あのときは人民こそ災難だった。髪を全部伸ばせば官兵に殺されるし、辮髪のままなら長髪賊に殺されるんだからな。どれだけたくさんの中国人が、この痛くもかゆくもない髪の毛のために苦しみ、いじめられ、命を落としたことか!<魯迅・竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記他十二編』岩波文庫 p.67-68、p.218-219の注参照>