李退渓/李滉
16世紀、朝鮮王朝(李朝)の朱子学者。朱熹の「理」を発展させ、朝鮮での儒教の定着をもたらした。
1000ウォン紙幣の李退渓
27歳で科挙に合格して進士となり、諸官を歴任した後、1559年に退官し、故郷に陶山書院を建て、学問と教育に専念した。書院とは在郷で私立の儒学教育施設のこと。陶山書院は朝鮮王朝時代の代表的な書院として慶尚北道安東郡に現在も残っている。また李退渓の子孫は、現在まで在郷の両班として続いている。
また李退渓の学説は、その系統を嗣ぐ姜沆(カンハン)という学者が、16世紀末の壬辰・丁酉の倭乱の際に倭軍の捕虜となって日本に連れて行かれ、後に京都に招かれて藤原惺窩と交流し、強い影響をあたえた。藤原惺窩によって取り入れられた朱子学は林羅山らによって江戸時代の公認の学問とされることになった。
Episode 李退渓の肖像の受難
(引用)ともあれ、私も幼い頃に、李退渓先生とは「大そうエライ先生」ということだけはたんと聞かされたものである。なぜ偉いのかはだれも説明してくれない。だが、日本の植民地時代、それも太平洋戦争末期の軍国主義時代でさえ、私たちが通っていた国民学校の廊下の東壁には、山字形の程子冠(チョンジャクァン)をかぶった李退渓の肖像画がかかげられていた。このこと一つでも退渓がいかに尊敬されていたかがわかるであろう。(中略)この肖像も大戦末期に赴任してきた日本人教頭によって地面にたたきつけられ、解放を目の前にしながらついに姿を消すのだが、しかし、皇国臣民の教育を施す現場に退渓の写真がかかげられていたということで、子ども心にも「退渓先生というのはよほど偉い人にちがいない」と思ったものである。<尹学準『オンドル夜話―現代両班考』1985 中公新書 p.51-52>同書には続いて李退渓の子孫が日本植民地下で創氏改名を拒否した話が紹介されている。