宋学/朱子学
宋代に生まれた、新しい儒教(儒学)思想。南宋の朱熹が大成し、その後の中国の主要な思想となり、日本など封建時代の周辺諸国にも大きな影響を与えた。
宋代(北宋から南宋にかけて)に形成された、新しい儒学・儒教を宋学という。宋学を大成したのが朱子(朱熹)であったので一般に朱子学ともいう。宋学の成立は、中国思想の中でも革新的なものであり、仏教・道教と並ぶ体系的な世界観を確立したことを意味し、朝鮮および日本を含む東アジア圏に影響を与え、儒教文化圏を形成することとなる。その革新性とは、古文の解釈を行う訓詁学が主流であった後漢の鄭玄以来の儒教(儒学)を、哲学あるいは実践倫理にまで高めたことにある。その点から、宋以前の儒学を訓詁学、宋以降の儒学を、その主張するところから性理学ともいう。また、宋学(朱子学)を支えたのが、経済的余裕を勉学に充て、科挙に合格して官僚となることのできた新興地主階級である士大夫であった。 → 宋代の文化 科挙
16世紀後半、朝鮮の儒学の最盛期となり、李退渓と李栗谷の二大家が現れた。二人はそれぞれ朱熹の理気二元論を発展させたが、前者は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、後者は「気」を重視する主気説を唱えて、二大学派を形成するようになった。彼らの朱子学的統治論、国王を頂点とする身分秩序と長幼や男女の差を絶対視する社会観は、在地の両班を通じて民衆教化が施され、族譜を軸とした祖先崇拝が朝鮮社会に深く浸透した。特に李退渓の学問は、16世紀末の壬辰・丁酉の倭乱の際、その後継者の一人姜沆(カンハン)に日本軍の捕虜となったことによって日本にももたらされ、強い影響を与えた。
満州人が建国した清が、明に代わって中国を統治するようになると、朝鮮の朱子学者は大義名分の観点から、儒教の本家は朝鮮に移ったと考えるようになり、小中華思想が興った。しかしそのため、事大党のような他国に対する尊大な意識が強まり、19世紀になって欧米や日本の侵攻を受けるようになると適切な対応ができす、朝鮮王朝の衰退の一因ともなった。 → 朝鮮の儒教
このうち藤原惺窩はもともと仏教徒であったが、仏教に疑問を持つようになって儒学に転向し、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)で捕虜となって日本に拉致された朝鮮の朱子学者姜沆から李退渓の学説を学ぶことによって、朱子学の体系的な受容を行うことができた。
江戸幕府は藤原惺窩の弟子の林羅山を侍講として登用して以来、朱子学を幕藩体制の支配理念として利用し、林家を代々の大学頭に任用して御用学問朱子学による思想統制を行った。なお、明の遺臣朱舜水は明再建に失敗した後日本に渡り、水戸の徳川光圀に招かれ、水戸学の祖となった。朱子学者には木下順庵、新井白石、室鳩巣など優れた学者が出現し、幕政にも参画した。しかし、元禄頃から儒学の中の古学や陽明学も盛んになり、形式的な朱子学に対する批判が起こってくると、それが幕藩体制の動揺につながることを恐れた松平定信の「寛政異学の禁」を出すこととなった。幕末には大義名分論は尊王攘夷論と結びつき、特に水戸学の思想は多くの過激な尊攘派を生みだし、桜田門外の変などを起こした。しかし、開国から明治維新、文明開化の近代化の大きな動きの中で、儒学全体が過去の文化遺産と位置づけられるようになった。
しかし、このような権力による注釈書の検定作業は、学問の自由な発展を阻害する側面があったとも言われている。明代に現れた王陽明は朱子学を深く学びながら、それが観念的、形式的な空疎な理論になっていることを批判し、自らの行動に活かさなければ真の思想ではないと考えるようになり、知行合一(知識と行動を一致させる)という理念に到達した。その新しい思想は、陽明学である。陽明学は宋学の性即理に対しては心即理を説き、心学といわれて、明代に流行した。
宋学の系譜
宋学の源流は唐の韓愈(韓退之)の思想にも見られるが、宋(北宋)および南宋には次のような経過で形成された。- 北宋の周敦頤:宋学の始祖と言われ、仏教・道教の理論を導入して『太極図説』という宇宙論を展開し、聖人の道を示して士大夫に支持された。
- 北宋の神宗の時期の程顥(ていこう、程明道とも)・程頤(ていい、程伊川とも):二人は兄弟。あわせて二程ともいう。老荘思想の影響を受け、宇宙の根本原理を「理」、それが形となって現れる物質的原理を「気」ととらえ、その二つの原理の統一を説いた。彼らの思想は同時代の張横渠とともに、理気二元論、「性即理」といわれる。程顥は王安石の改革に反対して官を辞した。
- 南宋の朱熹(朱子):宋学を大成したとされる。朱子が大成した宋学のキーワードは、理気二元論、性即理、格物致知、大義名分論、華夷の別などである。
朝鮮の宋学(朱子学)
朱子学が、本国の中国よりも民衆生活に深く定着したのが朝鮮である。古代朝鮮では新羅などで儒教が伝えられ、高麗では958年に科挙制度が始まり、官僚の教養として不可欠のものとなったが、そのころは国王から民衆にいたるまで、生活の規範とされたのは仏教の方であった。仏教寺院は国家的な保護によって豊かになったが、その反面、腐敗堕落する面が現れ、次第に民衆から離れていった。14世紀に伝えられた朱子学の影響を受けた知識層は仏教に対する批判を強めるとともに、新しい政権である李成桂が建てた朝鮮王朝(李朝)を支持するようになり、朝鮮王朝は朱子学を仏教に代わる統治理念として保護し、国教的な存在となった。また朱子学を精神的支柱とした官僚は、両班として支配的な階層を形成していった。16世紀後半、朝鮮の儒学の最盛期となり、李退渓と李栗谷の二大家が現れた。二人はそれぞれ朱熹の理気二元論を発展させたが、前者は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、後者は「気」を重視する主気説を唱えて、二大学派を形成するようになった。彼らの朱子学的統治論、国王を頂点とする身分秩序と長幼や男女の差を絶対視する社会観は、在地の両班を通じて民衆教化が施され、族譜を軸とした祖先崇拝が朝鮮社会に深く浸透した。特に李退渓の学問は、16世紀末の壬辰・丁酉の倭乱の際、その後継者の一人姜沆(カンハン)に日本軍の捕虜となったことによって日本にももたらされ、強い影響を与えた。
満州人が建国した清が、明に代わって中国を統治するようになると、朝鮮の朱子学者は大義名分の観点から、儒教の本家は朝鮮に移ったと考えるようになり、小中華思想が興った。しかしそのため、事大党のような他国に対する尊大な意識が強まり、19世紀になって欧米や日本の侵攻を受けるようになると適切な対応ができす、朝鮮王朝の衰退の一因ともなった。 → 朝鮮の儒教
日本の宋学(朱子学)
日本には、鎌倉時代に宋に渡った禅僧によって伝えられ、鎌倉仏教の五山僧によって研究が進み宋学といわれた。鎌倉末期には特にその大義名分論が後醍醐天皇の倒幕思想に影響を与え、建武の新政の理念とされた。室町時代も禅僧によって宋学の研究が続き、義堂周信や絶海中津など五山文学といわれる漢詩文の隆盛がもたらされた。また桂庵玄樹の薩南学派、南村梅軒の南学(海南学派)、藤原惺窩の京学派などの系統がうまれた。このうち藤原惺窩はもともと仏教徒であったが、仏教に疑問を持つようになって儒学に転向し、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)で捕虜となって日本に拉致された朝鮮の朱子学者姜沆から李退渓の学説を学ぶことによって、朱子学の体系的な受容を行うことができた。
江戸幕府は藤原惺窩の弟子の林羅山を侍講として登用して以来、朱子学を幕藩体制の支配理念として利用し、林家を代々の大学頭に任用して御用学問朱子学による思想統制を行った。なお、明の遺臣朱舜水は明再建に失敗した後日本に渡り、水戸の徳川光圀に招かれ、水戸学の祖となった。朱子学者には木下順庵、新井白石、室鳩巣など優れた学者が出現し、幕政にも参画した。しかし、元禄頃から儒学の中の古学や陽明学も盛んになり、形式的な朱子学に対する批判が起こってくると、それが幕藩体制の動揺につながることを恐れた松平定信の「寛政異学の禁」を出すこととなった。幕末には大義名分論は尊王攘夷論と結びつき、特に水戸学の思想は多くの過激な尊攘派を生みだし、桜田門外の変などを起こした。しかし、開国から明治維新、文明開化の近代化の大きな動きの中で、儒学全体が過去の文化遺産と位置づけられるようになった。
朱子学から陽明学へ
儒学は元の時代に科挙が一時停止されたこともあって、しばらく停滞したが、漢民族の支配を復活させた明代には、朱子学が皇帝専制政治を支える理念として隆盛を迎えた。永楽帝は『永楽大典』の編纂事業を進めるとともに、『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』を選定して科挙の公的注釈書とした。しかし、このような権力による注釈書の検定作業は、学問の自由な発展を阻害する側面があったとも言われている。明代に現れた王陽明は朱子学を深く学びながら、それが観念的、形式的な空疎な理論になっていることを批判し、自らの行動に活かさなければ真の思想ではないと考えるようになり、知行合一(知識と行動を一致させる)という理念に到達した。その新しい思想は、陽明学である。陽明学は宋学の性即理に対しては心即理を説き、心学といわれて、明代に流行した。