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天津条約(1858)

1858年、アロー戦争中に清が英仏露米四国と結んだ条約。清がその批准を拒否ししたため、英仏が北京を攻撃し、ようやく1860年に批准され成立した。

 1858年6月、アロー戦争で追いつめられた清朝政府が、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの4カ国と結んだ条約。南京条約に始まる中国の不平等条約が、拡大強化された内容であった。
  1. 外国公使の北京駐在を認める。:それまで外国公使は香港・広州または上海のみで活動し、清朝の地方官吏と交渉するだけであったが、この条約で直接北京の中央政府と交渉できるようになった。清朝が拒んできた「夷狄」が皇帝の住む帝都に入りこんでくることとなる。
  2. キリスト教の布教を認める。:清朝は雍正帝の時、キリスト教の布教を禁止していた。
  3. 外国人の中国内地での旅行・通商の自由を認める。:開港場では土地購入、居住、教会・病院の設立ができ、中国内地では旅行、通商、自由な布教ができた。
  4. 開港場の増加:牛荘(後の営口)、登州(後の芝罘、さらに煙台)、淡水、台湾(後に台南が選ばれる)、潮州(後の仙頭)、瓊州の6港と鎮江、漢口、九江、南京の4市(いずれも長江沿岸の都市。締結時は太平天国が占領していたので、実際の開港場になるのは乱平定後の1864年以降となる)。
  5. 賠償金支払い:イギリスに400万、フランスに200万、合計600万両。
 この条約は1年以内に北京で正式な批准書を交換することが規定されていた。批准とは、外交官間で締結した条約を、互いに本国政府(近代国家では議会)に持ち帰り、正式に認めること。批准書の交換して条約は正式に成立する。

批准拒否による戦争再開

 しかし清朝内部には条約の批准に消極的な意見が強く、特に北京への外国使節の駐在は、皇帝の居城近くに夷狄が入ることになるとして反発した。清朝政府はその声に押され、イギリス・フランスの使節の北京入りを拒否した。そのような清に圧力をかけるため、イギリス艦隊は天津の外港である大沽で示威行動を行った。反発した清側が発砲し、戦闘が再開された。
円明園の焼き打ち 報復と称して北京に侵入したイギリス・フランス連合軍は、円明園を破壊するなどの暴行を加え、略奪を行った。恐れた清朝皇帝咸豊帝は熱河に逃亡してしまったので、北京に残った軍機処の役人との間で交渉が行われ、1860年10月に天津条約の批准書交換がようやく実行された。さらに英仏両国は天津条約に加え、より有利な北京条約を締結することに成功する。
総理衙門の設置   天津条約が批准成立したことによって、外国公使(外交官)が北京に駐在することとなったため、翌1861年1月に清朝政府ではじめて諸外国と対等に外交を管掌する官庁として総理各国事務衙門(総理衙門)が設けられた。これは、中国の外交姿勢を、従来の華夷思想にもとづく朝貢体制から転換させるという重要な意味をもっていた。
注意 清朝と英・仏との天津条約は当初、批准されなかったが、結局はイギリス・フランス連合軍の北京攻撃の結果、批准され、さらに北京条約が締結された。天津条約とその一部を修正、追加した北京条約と共に、アヘン戦争の時の南京条約に加えて、中国を拘束することとなる(フランス、アメリカとも同様の条約を結んでいるが基本的に同様と考えて良い)。ロシアとも同じ1860年に北京条約を結んでおり、領土規定が異なるので、別に扱われる。なお、天津条約には、1885年、清仏戦争の結果として清とフランスの間で締結された天津条約、また同年、甲申政変を受けて日本と清で締結した天津条約もあるので注意すること。
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