ヴェルサイユ宮殿
ルイ14世がパリ郊外に建設した宮殿。1682年からルイ14世はここで政務を執り、ブルボン朝絶対王政の政治・宮廷文化の中心となった。バロック式建築を代表する文化遺産でもある。
ルイ14世が1661年に本格的造営を開始、数十年をかけて造営した宮殿。パリの南西約20㌔にある。もとはルイ13世が狩猟の際の宿泊のために作った小さな城であったところを、ルイ14世が改修・拡張した。宮殿の中心の「鏡の間」や、庭園が有名。広大な庭園はル=ノートルの設計、宮殿本館はル=ヴォー、鏡の間はルブランとマンサールが手がけた。この宮殿建築はバロック美術の集大成という趣であった。
ルイ14世に続いて、ヴェルサイユ宮殿ではルイ15世の時代には愛妾のポンパドゥールやジャンヌ=ドゥ=ヴァリーを中心とした宮廷文化が華やかに展開され、バロックに代わってロココ様式といわれるようになった。ルイ16世の時代には王妃マリ=アントワネットが豪奢な生活を送り、ロココ文化の最盛期となった。その繁栄は、フランス・ブルボン朝の絶対王政を象徴する場となった。
ヴェルサイユ宮殿は、その後の世界史でもたびたび登場する。ナポレオン3世がプロイセンのビスマルクの挑発に乗せられて始まった普仏戦争は一方的な敗北となり、1871年1月8日にはヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ帝国皇帝の戴冠式を挙行した。敵国の宮殿で戴冠式を行うという、最大の屈辱を与えたこととなる。フランスはこの時の屈辱に対する報復として、第一次世界大戦でドイツが敗れると、その講和条約であるヴェルサイユ条約の調印式をあえてヴェルサイユ宮殿鏡の間で行い、ドイツにとって屈辱的な条約の調印をさせたのだった。
ブルボン朝絶対王政の繁栄
なお、ブルボン朝の宮廷は、パリのサン=ジェルマン、フォンテーヌブローにもあったが、1682年からヴェルサイユ宮殿に移し、フランス革命の勃発する1789年までは、一時期を除いてそこに置かれた。政治の中心がパリから離れ、王を頂点としたヴェルサイユ宮殿の宮廷で行われるようになったことは、政治の実権を貴族や聖職者の手から国王のもとに集中させる意味もあったが、パリの民衆から国王は遠い存在となり、関係が希薄になった面もある。ルイ14世に続いて、ヴェルサイユ宮殿ではルイ15世の時代には愛妾のポンパドゥールやジャンヌ=ドゥ=ヴァリーを中心とした宮廷文化が華やかに展開され、バロックに代わってロココ様式といわれるようになった。ルイ16世の時代には王妃マリ=アントワネットが豪奢な生活を送り、ロココ文化の最盛期となった。その繁栄は、フランス・ブルボン朝の絶対王政を象徴する場となった。
近現代史の舞台
フランス革命の勃発した1789年の10月、食糧高騰に激昂したパリの女性たちがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王に人権宣言への署名とパンの配給を迫り、ついには国王夫妻をパリに連れ戻すという、ヴェルサイユ行進という事件が起こった。その結果、国王は約100年ぶりにパリに戻った。ヴェルサイユ宮殿は、その後の世界史でもたびたび登場する。ナポレオン3世がプロイセンのビスマルクの挑発に乗せられて始まった普仏戦争は一方的な敗北となり、1871年1月8日にはヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ帝国皇帝の戴冠式を挙行した。敵国の宮殿で戴冠式を行うという、最大の屈辱を与えたこととなる。フランスはこの時の屈辱に対する報復として、第一次世界大戦でドイツが敗れると、その講和条約であるヴェルサイユ条約の調印式をあえてヴェルサイユ宮殿鏡の間で行い、ドイツにとって屈辱的な条約の調印をさせたのだった。