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アドリアノープル/エディルネ

ローマ皇帝ハドリアヌス帝が建設した都市。ギリシアの北方、バルカン半島の要衝にあり、商業が発展するとともに、古来幾たびか戦場となった。バルカン半島に進出したオスマン帝国は1361年ごろにこの地を占領、後に都としエディルネといわれるようになった。

ローマ時代

エディルネ GoogleMap

 この都市は、ローマの五賢帝の一人ハドリアヌスの建設した都市で、その名からラテン語でハドリアノポリスと言われた。そのギリシア名がアドリアノープルである。この地は、ローマ帝国が東西に分かれていく前の重要な地点にあったことから、4世紀に次のような重要な戦闘が三度にわたって行われている。
コンスタンティヌス帝、帝国を統一 324年7月3日にはコンスタンティヌスが西の皇帝として、東の皇帝リキニウスとの最終決戦をアドリアノープル近郊で行い、勝利して単独皇帝として帝国を支配するきっかけをつかんだ。
 このときの戦いでは、コンスタンティヌス帝は歩兵12万と騎兵1万をもって戦いに臨み、リキニウス帝の歩兵15万、騎兵1万5千の大軍と相対した。兵力については資料によって異同が大きく、正確なところは判らないが、かなりの兵力が衝突したのは間違いなく、古代ローマで最大の会戦であったとされている。なお、敗れたリキニウス帝は再起を図って逃亡したが、9月に捕らえられて翌年諸島に処刑された。コンスタンティヌス帝は306年の即位からこの戦今での間、常に対立皇帝との緊張関係を強いられたたため、自身の権力基盤となる機動軍として宮廷補助軍や皇帝護衛部隊を創設して軍事力を強化してきた。このアドリアノープルの戦いで対立皇帝を屈服させ、それまでの分治方式をなくして帝国の統一的支配を復活させた。330年、都をコンスタンティノープルに定めたのもその意味があった。<井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書 p.149>
 351年には、コンスタンティヌス大帝の次のローマ皇帝となったコンスタンティウス2世に対して、ガリアを拠点にして反旗を翻し、自らも皇帝を名のったマグネンティウスが戦いを挑んだが敗れた。
ローマ帝国、西ゴート軍に敗れる 378年には、ドナウ川を越えてローマ領に移動した西ゴート人人が反乱を起こしたことに対し、ローマ皇帝ヴァレンスが鎮圧に向かったが、この地の戦いで皇帝が戦死するという敗北を被った。西ゴート人は376年にフン人に追われてドナウ川を越え、ローマ帝国領内に逃れとき、ローマ帝国の東の正帝ヴァレンスは領内での居住を認めた。にもかかわらず現地のローマ官吏は西ゴート人に対して敵意を持ち、食料も与えず冷遇したことに西ゴート人が怒ったことが反乱の始まりだった。
 このときヴァレンス帝はシリアのアンティオキアでササン朝と対峙していたので、部下を派遣したが反乱を鎮圧することができなかった。そこでササン朝への対応を中断して378年8月、コンスタンティノープルに戻り、西の皇帝として分割統治しているグラティアヌス帝に援軍を要請した。しかし援軍が到着する前に西ゴート軍の主力1万がアドリアノープルに向かっているという知らせを受け、ヴァレンス帝は自ら兵を率いて出撃した。しかし8月9日、アドリアノープル近郊での戦闘でローマ軍は壊滅的な敗北を喫した。敗北の原因は敵勢力の数及びその位置を正確に把握せず、援軍を待たずに出撃し、戦闘中に左翼側面から予期せぬ騎兵部隊の攻撃を受けたことにあった。アンミアヌス・マルケリヌスの『ローマ帝政の歴史』によればこの戦いでローマ軍はあの第二次ポエニ戦争の時のカンネーの戦い以来の大敗北を喫し、兵力の3分の2を失い、皇帝自身も戦死した。
 東方正帝の戦死を受けて、西方井帝グラティアヌス帝が新たな東方正帝として選んだのが、退役将校であったテオドシウスであった。新東方正帝の最初の仕事は機動軍の再建と、西ゴート人への反撃であったが、それは果たされることはなかった。<井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書 p.193>
 その後、ローマ帝国が東西に分裂すると、バルカン半島に位置するアドリアノープルは東ローマ領(ビザンツ帝国)とされる。

オスマン帝国による征服

 14世紀にオスマン帝国は、バルカン半島に進出を開始、その過程で、ムラト1世は、1361年ごろこの地を占領し、さらに1366年にそれまでのブルサに替わるオスマン帝国の新しい都とした。オスマン帝国の都となってからはエディルネと改称された。1453年に都がイスタンブルに移るまでの都であり、それ以後もオスマン帝国第2の都市として栄えた。現在もトルコ共和国のヨーロッパ領土として残っている。
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井上文則
『軍と兵士のローマ帝国』
2023 岩波書店