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バルカン半島

東ヨーロッパの南部、ほぼドナウ川以南、地中海海岸までの地域。ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国といった大帝国の支配が続いたが、その間、ラテン系、ゲルマン系、スラブ系、トルコ系などの諸民族が諸国家を建設し、民族対立・宗教対立が続いた。とくに近代のバルカン問題は第一次世界大戦の導因となった。現代においても深刻な民族紛争が起こっている。

 バルカン半島はヨーロッパの東、西をアドリア海・イオニア海、東を黒海、南を地中海・エーゲ海に囲まれた広範な地域を指す。一般にルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラヴィア・アルバニア・ギリシア・トルコのヨーロッパ部分からなる。(ドナウ川中流のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキアはバルカンには入らず、中欧とかドナウ諸国と呼ぶことが多い。)

バルカンの概要

 ローマ帝国の勢力が及び、その征服を受けて穀物と奴隷の供給とされていたが、ゲルマン民族の大移動の時期には東ゴートなどがこの地域を経由して西進した。ローマ帝国分裂後はコンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国の支配下に入るが、その後身であるビザンツ帝国のもとでギリシア正教を柱とした独自のビザンツ様式の文化が発展した。しかし次第にスラヴ人ブルガリア人が自立して国家を建設し、ビザンツ帝国は領土を縮小させ、都の周辺のみを支配する小国になった。
 14世紀以降はトルコ人のイスラーム教国家であるオスマン帝国が小アジアからバルカンに進出、ついに1453年にビザンツ帝国をほろぼし、バルカン半島から西アジア、北アフリカにかけて支配を及ぼしたオスマン帝国が成立した。オスマン帝国の支配が長く続く間、バルカン半島のイスラーム化が進んだ。
ヨーロッパの火薬庫 18世紀以降はオスマン帝国の衰退に伴い、パン=ゲルマン主義を掲げるゲルマン系民族と、パン=スラヴ主義を掲げるスラブ系民族が、それぞれ隣接する大国オーストリアとロシアの後援を受けて、バルカン半島で衝突して東方問題を引き起こされる。ついでバルカン半島の国々も互いに領土をめぐって争うというバルカン問題に展開し、「ヨーロッパの火薬庫」といわれ、ついに第一次世界大戦に及んでいく。第二次世界大戦後においては東西冷戦の最前線としての緊張が続き、冷戦構造終了後は民主化の動きとともに堰を切ったように民族対立が表面化し、ユーゴスラヴィア内戦からその解体へと、再び世界の不安定要素の一つとして新たなバルカン問題が発生している。

バルカン半島(1) ローマ帝国からビザンツ帝国へ

ローマ帝国の支配

 バルカン半島は古代においてはローマ帝国の支配が及び、その属州となった。東西分裂後は大部分は東ローマ帝国の領域となり、コンスタンティノープルがその都となって次第にギリシア化したため、東ローマ帝国はビザンツ帝国と言われるようになった。4世紀以降のゲルマン人の大移動の時期には、いくつかのゲルマン部族がバルカン半島を通過したが、定着したものはなく、ビザンツ帝国の支配が継続された。

ビザンツ帝国とスラヴ人の諸国家

 その後バルカン半島はビザンツ文化圏を構成し、宗教的にはビザンツ教会=ギリシア正教が浸透するが、中欧に接する地域にはローマ教会の影響も及んでいる。7世紀頃からスラヴ人のなかの南スラヴ人の南下が始まり、彼らはビザンツ帝国との関係を強め、セルビア王国などが生まれる。またトルコ系がスラヴ人に同化したブルガリア人やルーマニア人も独自の権力を生み出していく。ビザンツ帝国は7世紀から東側の小アジアをイスラーム勢力の侵攻を受け、次第に国力を衰退させ、バルカン半島ではセルビアとブルガリアが次第に有力となっていった。13世紀にはモンゴル帝国バトゥの侵入を受けたが、バルカン諸国にはその直接的な支配は残らなかった。しかしこの情勢を一変させたのは14世紀に始まる小アジアからのオスマン帝国の侵入によってイスラーム教が浸透したことであった。その結果、バルカン半島は、多くの民族が共存するとともにキリスト教文化・イスラーム文化が混在しする、きわめて複雑な歴史的環境を持つ地域となった。

バルカン半島(2) オスマン帝国の半島支配

オスマン帝国は14世紀に小アジア西部に成立、まもなくバルカン半島に進出し、14世紀末までにその大半を征服した。1453年にコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、16世紀にはハンガリーを征服、ウィーンに迫った。この間、バルカンのイスラーム化を進めたが17世紀からオーストリアに押されて次第に後退が始まる。

オスマン帝国の進出

 バルカン半島は正式にはローマ帝国を継承するビザンツ帝国が治めていたので、トルコ語ではルーメリ(ルーム=ローマのイル=地方)といわれていたが、スラヴ系のセルビア人やクロアチア人、スラヴ化したブルガリア人などが流入、割拠してビザンツ帝国領はかなり縮小していた。
 14世紀に小アジア西部に成立しブルサを都としていたトルコ人のオスマン帝国は、ビザンツ帝国の内紛に乗じてダーダネルス海峡を渡ってバルカンに進出し、まずムラト1世は1354年にダーダネルス海峡の要地ガリポリを抑えた。さらに1361年ごろ、アドリアノープルを占領し、エディルネと改称して1366年ごろまでに都をブルサからこの地に都を遷した。
コソヴォとニコポリス 14世紀の終わりごろ、オスマン帝国の北上する勢力はキリスト教国を脅かし、1389年にセルビアはハンガリーなどとともにコソヴォの戦いで敗北し、大きな衝撃となった。ブルガリア王国もオスマン帝国の侵攻によって次第に領土を失った。ハンガリー王ジギスムントを中心としたキリスト教国連合は、反撃を試みたが1396年バヤジット1世の率いるオスマン帝国軍によって、ニコポリスの戦いで敗れ、ブルガリアは完全にオスマン帝国領となった。
 こしてオスマン帝国の侵攻はキリスト教世界に大きな脅威を与えたが、そのころ中央アジアに台頭したティムールが小アジアに侵入し、1402年アンカラの戦いでオスマン帝国が敗れたため、そのバルカン進出は一時、後退することとなった。

ビザンツ帝国の滅亡

 しかし15世紀中ごろオスマン帝国は態勢を整え、攻撃を再開、1453年メフメト2世はビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。ついにコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国は滅亡した。

オスマン帝国の拡大

 さらにセリム1世の時代(~1520年)までに、セルビアボスニアアルバニアギリシアほぼ全土を征服して領土に編入し、はさらにドナウ川を越えてワラキアモルダヴィアトランシルヴァニアを属国(オスマン帝国を宗主国として貢納を義務づける)とした。バルカン以外では黒海北岸のクリム=ハン国まで属国となった。こうしてバルカン半島は完全にオスマン帝国のイスラーム勢力に支配されることとなった。

支配のあり方

 オスマン帝国はバルカン地域を支配する際、騎士(シパーヒー)にティマール(知行地からの徴税権)を与えて支配させ、ギリシア正教会などのミッレト(宗教共同体)の自治を認めた。また、ムラト1世は征服したバルカン半島のキリスト教徒の少年を強制的に徴兵してイェニチェリ(新軍団)を編制したが、この徴兵制はデウシルメと言われ、14世紀から18世紀まで行われた。バルカン半島の青少年にとっては苦難であったが、同時にイェニチェリはオスマン帝国で立身しうるチャンスでもあった。

スレイマン大帝

 さらに16世紀のスレイマン1世の時代にはオスマン帝国のバルカン支配は拡大され、1526年モハーチの戦いでハンガリー軍を破り、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世と抗争を展開した。1529年、スレイマン1世はハプスブルク朝の都ウィーンを包囲し、おりから宗教改革の時代で混乱していたヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。また1538年プレヴェザの海戦ではオスマン海軍がスペイン・ローマ教皇・ヴェネティアの連合艦隊を破り、地中海の制海権を獲得した。
 しかしそのころを頂点としてバルカンのオスマン領は次第に後退する。帝の死後、1571年レパントの海戦ではオスマン海軍は敗北し、バルカン半島でのハプスブルク家神聖ローマ帝国との戦線もしばらく膠着することとなる。

バルカンからの後退

 1683年には第2次ウィーン包囲を強行したが失敗し、この間国力をつけたオーストリア帝国との間で、1699年カルロヴィッツ条約を締結してハンガリーおよびトランシルヴァニア(現ルーマニアの一部)を放棄した。これがオスマン帝国がバルカンの領土を失った最初である。一方、ロシアもクリミア半島から黒海方面に進出し、ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡通過権を得ようと介入を強めた。

バルカン半島(3) 東方問題とバルカン問題

オスマン帝国の弱体化に伴ってヨーロッパ列強がバルカンに進出、東方問題が起こり、さらにバルカン問題が深刻化した。

 オスマン帝国の弱体化に乗じて列強が進出し、東方問題といわれる国際紛争が続く。特にロシアの南下政策はオーストリアおよび、インド・エジプトのイギリスの勢力と対立する。帝国主義時代にはスラヴ系民族とゲルマン民族の対立という民族大陸に姿を借りたロシアとオーストリアの対立が深刻となり「ヨーロッパの火薬庫」といわれる。

東方問題

 フランス革命とナポレオンの登場は、バルカン半島にもナショナリズムと自由主義の影響を及ぼすこととなり、19世紀にはいると民族意識が一斉に高まった。セルビアなどの各地で反オスマン放棄が起きるようになった。またギリシア独立戦争を機に、それに介入するヨーロッパ列強の対立からいわゆる東方問題が起こってくる。特に南下政策を強めたロシアに後押しされたスラヴ系民族は、1830年にセルビア人が自治権を獲得し、1877年露土戦争後に締結されたベルリン条約によってモンテネグロと共に独立が認められる。

「ヨーロッパの火薬庫」

 1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合し、ブルガリアは独立を宣言した。こうして、オスマン領はオーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラヴ主義による争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。このバルカン問題は、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアがロシアの後押しでバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦った第1次バルカン戦争としてついに火を噴き、さらにブルガリアと他の三国・オスマン帝国とが戦った第2次バルカン戦争が続いた。オスマン帝国はこれらの戦争の結果、1913年のロンドン条約でイスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失った。

現在につながる問題

 以上のような13世紀から20世紀初頭に至るオスマン帝国のバルカン半島支配により、現在でもバルカン諸国内にはイスラーム教徒が存在し、ブルガリア、ギリシアなどにトルコ系住民も残っていて、複雑な宗教的・民族的対立の歴史的背景となっている。しかし、オスマン帝国のバルカン半島支配は、例えばキリスト教やユダヤ教の信仰をミッレトとして認めたように強圧的ではなかったことが特徴である。

バルカン半島(4) 戦後のバルカン諸国

第二次大戦中はドイツ、イタリアの枢軸国の支配が及んだが、解放に大きな力となったソ連の影響力が強まり、戦後はギリシアを除き共産圏に組み込まれた。ユーゴスラビアはチトーの指導の下独自路線を歩んだ。1989年の東欧革命で民主化、ユーゴ解体という激変が起き、その後も民族対立から混迷が続いた。

戦後のバルカン半島諸国

 第二次世界大戦後は、バルカン半島はギリシアを除き、社会主義政権が樹立され、ソ連の同盟国として、東欧共産圏を構成するようになった。ルーマニアブルガリアアルバニアワルシャワ条約機構に加盟し、ソ連の衛星国となったが、新たに出現したユーゴスラヴィア連邦ティトーのもとで独自路線を歩み始めた。

東欧革命とユーゴ解体

 東西冷戦が続く中、ソ連に追随する外交、官僚主義的な社会主義経済の停滞が次第に矛盾を深めて行き、1989年には一気に東欧革命が吹き荒れ、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権が倒されるなどの民主化が一気に進んだ。そのあおりでユーゴスラヴィア内戦が起こり、ユーゴスラヴィアは解体され、2006年までにクロアティアスロヴェニアマケドニアボスニア=ヘルツェゴヴィナセルビアモンテネグロがそれぞれ分離独立した。その間、 ボスニア内戦コソヴォ問題ではムスリム人がその当事者として関わっていた。

NewS 2006.1.6 バルカン・トルコで共通歴史教材

 2006年1月6日の朝日新聞国際面に「バルカンで共通歴史教材」という記事が掲載された。近代のバルカン半島諸国の歴史を考えるのに興味深い内容なので、長いが引用させていただく。
(引用)各民族が複雑に入り組み、紛争が繰り返されてきた欧州・バルカン諸国の歴史家が、バルカン半島にある国々とトルコ、キプロスの計11ヵ国を対象とする高校用歴史教材を作った。自国に都合よい記述が目立つ歴史教科書を補うため、国ごとに異なる歴史認識をそのまま盛り込んだ。生徒に「他者の視点」を知ってもらおうと、セルビア・モンテネグロ政府がさっそく採用を決めた。専門家は、この地域への欧州連合(EU)拡大の動きが和解と地域協力を後押ししているとみる。(堀内隆)<朝日新聞 2006.1.6 記事。以下は要約>
対立する認識盛る 教材は4分冊。14世紀のオスマントルコから第2次世界大戦までを扱う。英語版が昨年6月に完成、地域の10ヵ国語への翻訳を進めている。取り組みは旧ユーゴスラヴィアの解体を受けて地域の諸国に激しい内戦が広がった90年代後半に始まった。旧ユーゴでは90年代前半、セルビア人、モスレム人、クロアチア人が争ったボスニア紛争、セルビア共和国コソボの独立を巡るアルバニア人とセルビア人のコソボ紛争が起き、「民族浄化」と形容される大規模な集団殺害が繰り返された。各国の歴史家が「南東欧共同歴史プロジェクト」を立ち上げたのが98年、2年間で7回開いたワークショップを通じ、各国の歴史教育で主張が対立する部分を洗い出した。国ごとに対立する点は併記することを基本にしたが、しばしば意見の衝突も起きた。
異なる見解を併記した例
  • 15世紀のオスマン帝国のバルカン進出 トルコでは「解放」、ギリシアでは「征服」と教えられる。財産を奪われ追放された被征服者の記録と、復興に尽力したオスマン帝国のスルタンの業績を記した資料を併記。
  • 20世紀初頭のバルカン戦争 マケドニア領有をめって争ったブルガリア、ギリシア、セルビア3国が出したマケドニアの民族別人口比の党系を併記。
  • 国旗や国民の祝日 各国の決め方を比べ、どんな歴史上の事実を象徴として重視しているかを考える。
具体的な事例ではバルカン戦争中に起きたある村への焼き討ち事件の責任をめぐってブルガリアとギリシアの研究者の間で論争が起きたという。編集に携わった歴史家の一人、ギリシア人のクリスティーナ=クルリ氏は「ほかにも対立した例は数々ある。でも、われわれの出発点は、他者を批判するよりもまず自分自身に批判的になることだった」と語った。<以上、朝日新聞 2006.1.6 記事を要約>
 つい先日まで、激しい戦いを繰り返していたバルカン諸国のなかに、このような動きがあることは大いに注目してよい。驚くのは、バルカン諸国とトルコが同席して、歴史を見直そうとしていることだ。第二次世界大戦後の「現代史」までは含まれてはいないとしても、ここに同席した歴史家や歴史教育者に敬意を表したい。気になるのは、各国政府や世論、マスコミがはたして応援しているかどうかだが。見方の違いを認め合った上で、相互に謙虚に事実に向かいあうのが歴史家の役割に違いない。
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書籍案内

柴宣弘
『図説バルカンの歴史』
2006 河出書房新社

マーク・アゾワー
/井上廣美訳
『バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』
2017 中公新書