ムラト1世
14世紀中ごろ、オスマン朝初期のスルタン。アドリアノープルを攻略、新都エディルネとし、1389年のコソヴォの戦いでセルビアなどのキリスト教軍を破るなど、バルカン進出を進めた。またはじめてスルタンを称し、直属の軍事力としてイエニチェリを創設するなど、国家基盤をつくった。
オスマン朝第3代の君主(スルタン)。在位1326(異説がある)~89年。1361年ごろ、ビザンツ帝国第二の都市であったアドリアノープルを攻略してエディルネと改称し、1366年に新たな首都とした。オスマン帝国のバルカン半島支配の基礎を作り、イェニチェリを創設するなど、重要な事績を有する。1389年のコソヴォの戦いでセルビア王国軍を破ったが直後に不慮死した。ムラト1世の時代は、オスマン朝の基盤を小アジアからバルカン半島に移し、小侯国から帝国へと展開する転機となった。
バルカン半島での進撃
ムラト1世のオスマン朝がバルカン半島支配を進めたことは、ヨーロッパ諸国に深刻な脅威を与えることとなった。ビザンツ帝国皇帝はギリシア人、セルビア人、ブルガリア人などを動員し、ローマ教皇も十字軍の派遣をよびかけたが、キリスト教軍の足並みが揃わず、ムラト1世のオスマン軍を撃退することはできなかった。ついで1371年、ムラト1世はブルガリア王国のシュシュマン王の軍をソフィアの付近で機動力を駆使して破り、ブルガリア王は降伏して領土の大半はオスマン領となった。コソヴォの戦い
オスマン帝国とバルカン半島のスラヴ系国家の「関ヶ原」の戦いとなったのが1389年のコソヴォの戦いである。コソヴォはバルカン半島ほぼ中央にある原野で、現在この地はアルバニア系住民がセルビア共和国からの分離独立を要求してコソヴォ問題が深刻になっている(2008年にコソヴォ共和国として独立宣言)。オスマン帝国を率いるムラト1世のバルカンに向けてのジハードに対して、ブルガリアに続いて抵抗したのがセルビア王国であった。セルビア王ラザールはセルビア、ボスニア、ブルガリア、ワラキア、アルバニアなどの兵力を糾合してムラト1世をコソヴォ平原で迎え撃った。激戦の末、オスマン軍が勝利、ラザールも捕虜となってセルビアはオスマン帝国の支配を受けることとなった。しかし、ムラト1世もこの戦いの直後、不慮の死を遂げ、バルカン征服事業は次のバヤジット1世に受け継がれる。イェニチェリの創設
ムラト1世は、それまでの封建貴族を主体とする軍団とは別に、皇帝直属のイェニチェリを創設した。これは「新軍団」の意味で、征服したバルカン半島各地のキリスト教徒の少年を強制的に徴集し特別に訓練しながらイスラーム教の改宗させ、皇帝直属の軍団に編制したもので、これ以降のオスマン帝国の主要な軍事力となって恐れられただけでなく、内政でも大きな勢力となっていく。スルタンの称号
ムラト1世は、それまでのベイを改め、「アル=マリク=アル=ムアッザム=アル=ハガン=アル=スルターン=ビン=スルターン」つまり、“スルターンの息子スルターン、可汗、偉大なる王”という長たらしい称号を使用した。スルタンの称号はイスラーム教の最高指導者であるカリフ(教主)によって政治権力を委任されたものの意味で、実質的な王位の称号である。一般に、バヤジット1世がカイロに亡命していたアッバース朝カリフからその使用が認められたことからはじまるとされているが、碑文などからすでにムラト1世が用いていたことが明らかになってきた。ここではオスマン帝国で初めて「スルタン」の称号を用いたのはムラト1世とする。Episode 卑怯者か英雄か
(引用)戦いの直後スルターンが激戦の跡を訪れて自己の勝利を祝福しているうちに、戦士を装ってうつぶしていたセルビアの貴族ミロシュ=コビロウィチがむっくり起き直って、スルターンの心臓部めがけて短刀を振りかざし刺殺するという椿事が起こった。これはヴィザンティーン側の資料の説明であるが、オスマン側の記録やセルビア側の伝承では、かなり食いちがっている。オスマン側の記録によると、コビロウィチは偽り投降してスルターンの身辺に近接する機会をえて、足もとにひれ伏して忠順を誓うしるしに足に口づけを許された時、突如立ち上がってムラトを「だまし討」にしたことになっている。これに対してセルビア側の言い伝えでは、ムラトは交戦中仆されたとも、またコビロウィチと相撃ちで仆れたともされている。ムラトに単身立ち向かったという点で、コビロウィチはセルビア側からは「愛国者」、「民族の英雄」とみなされている。・・・コソヴォの勝利は、スルターンの生命と引き換えにかちえた文字通り“死の勝利”であった。事件の巻き添えでセルビア王ラザールは、報復的に処刑の憂き目を見た。<三橋冨治男『トルコの歴史』1964 紀伊国屋新書 1994復刻 p.111-112>