バヤジット1世
14~15世紀初頭のオスマン帝国スルタン。ニコポリスの戦いでアンカラの戦いでティムールに敗れる。
バヤジット(またはバヤズィット、バヤズィト)1世はオスマン帝国の第4代スルタン(在位1389~1402年)。父のムラト1世がコソヴォの戦いの際にセルビア貴族に暗殺された後、その後継者となった。またイェニチェリ軍団を編成し、常備軍を整備し強力な君主権を創りだした。彼は片目がつぶれていたとも、やぶ睨みだったとも伝えられているが、イルドリム(ユルドゥルムとも。電光、雷帝などの意味)とあだ名されるほど迅速に行動する軍事的な天才だった。<三橋冨治男『トルコの歴史』1964 復刻紀伊国屋新書 p.113>
バヤジットは東方の小アジアに進撃したとき、その地のカラマン侯国やドゥルカドゥル侯国などの小侯国を攻め、敵対する侯を捕らえて処刑し、王女を妻としていった。ティムール軍と相対したときのオスマン軍は、彼に征服されたバルカンのキリスト教徒からなるイエニチェリに、小アジアの小侯国の軍隊を加えた寄せ集めだった。ティムールは巧みな離間工作によってオスマン軍の中の旧侯国出身部隊を裏切らせる事に成功した。小侯国の戦士にしてみれば、キリスト教国出身の部隊と行動を共にするより、もとは同じトルコ系の遊牧民部隊であるティムール軍の方に靡いたのだろう。事実、戦いに勝ってからのティムールは、小侯国の復活を認め、小アジアを彼らに任せて自らは中央アジアに引き揚げた。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.60>
ニコポリスの戦いの勝利
バヤジット1世は1392年にブルガリアは滅ぼしてドナウ川以南のバルカン東部を征服しさらにビザンツ帝国を牽制するためにバルカン半島西部ののセルビアとボスニアを従属させた。それに対してヨーロッパのキリスト教世界は大きな脅威を感じ、ハンガリー王ジギスムントはキリスト教国連合軍の十字軍を興し、オスマン帝国の勢力下にあったブルガリアのドナウ川河畔に遠征を企て、1396年、ニコポリスの戦いとなった。バヤジット1世は巧みな集団戦でキリスト教国軍をやぶり、ジギスムントを敗走させた。その後、バヤジット1世はビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを数回にわたり包囲し、ビザンツ皇帝は1400年、救援を要請に西欧に赴かなければならなかった。オスマン帝国の伝承では、この勝利によって、アッバース朝カリフの継承者から、スルタンの称号を受けたという。アンカラの戦いの敗北
ところがその時、中央アジアから進出し西アジアを征服したティムールが小アジアに侵攻、1402年にバヤジットはアンカラの戦いでティムールを迎え撃った。イェニチェリ歩兵部隊が、ティムール騎兵の奇襲を受けて敗北し、バヤジット1世も捕虜となってしまった。ティムールはその後、中国で台頭した明の永楽帝にあたるため東方に転じたため、オスマン帝国は滅亡を免れたが内部対立もあって一時衰えた。一方、オスマン帝国のコンスタンティノープル攻撃も下火となり、ビザンツ帝国も約半世紀間、生きながらえることとなった。バヤジット1世はなぜ敗れたか
バヤジット(バヤズィト)1世は「稲妻王」とも言われる軍事的天才でニコポリスの戦いではキリスト教軍を撃破して恐れられた。しかし1402年のアンカラの戦いでは、こちらも不世出の軍事的天才ティムールに敗れてしまった。それにはどのような理由が考えられるだろうか。バヤジットは東方の小アジアに進撃したとき、その地のカラマン侯国やドゥルカドゥル侯国などの小侯国を攻め、敵対する侯を捕らえて処刑し、王女を妻としていった。ティムール軍と相対したときのオスマン軍は、彼に征服されたバルカンのキリスト教徒からなるイエニチェリに、小アジアの小侯国の軍隊を加えた寄せ集めだった。ティムールは巧みな離間工作によってオスマン軍の中の旧侯国出身部隊を裏切らせる事に成功した。小侯国の戦士にしてみれば、キリスト教国出身の部隊と行動を共にするより、もとは同じトルコ系の遊牧民部隊であるティムール軍の方に靡いたのだろう。事実、戦いに勝ってからのティムールは、小侯国の復活を認め、小アジアを彼らに任せて自らは中央アジアに引き揚げた。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.60>
Episode バヤジット1世の悪妻?
バヤジット1世には三人の妻がいた。いずれも征服地の王女との政略結婚であったが、その一人にセルビア王ラザルの王女デスピナがいた。デスピナは持参金としてセルビアの銀鉱をもたらし、それは後にオスマン帝国の重要な財源になった。デスピナはキリスト教徒のままだったと思われるが、ある年代記作者は彼女がバヤジット1世を悪徳に導いたと罵っている。酒宴を催すことなどなかったバヤジットが酒を嗜むようになったのはデスピナが教えたとか、バヤジットはかつてはウラマー(イスラーム法学者)の言葉に謙虚に従っていたのに、デスピナと結婚してから耳を貸さなくなったなどと伝えている。しかしこれはバヤジットのアンカラの戦いでの敗戦の原因は不信心にあり、それをもたらしたのがデスピナだったという後付けの話であろう。<小笠原弘幸『同上書』 p.55-56>