デヴシルメ
オスマン帝国が征服地のバルカン半島でキリスト教徒の男子を強制的に徴用した制度。回収後、イェニチェリや官僚とされた。
デヴシルメ Devsirme (かつてはデウシルメと表記されていた)とは、オスマン帝国の常備軍制度であるイェニチェリの制度のもとで、バルカン半島のキリスト教徒の少年を強制的に兵士として徴用すること。「デヴシルメ制」ともいう。デヴシルメとはトルコ語で「集めること」を意味し、オスマン帝国に特異な常備軍兵士の補充方法であった。他のイスラーム諸王朝でのマムルークは奴隷として購入しなければならないので費用がかかるが、デヴシルメは強制徴用なので費用がかからない利点があった。
制度としてのデヴシルメ
デヴシルメは主にオスマン帝国の征服地であるバルカン半島において、3年から数年に一度、不定期に実施され、キリスト教徒の農民の子供たち(ムスリムでない事が条件とされた)の中から、一人っ子を除く8歳から20歳ぐらいの健康な少年が選ばれる。護送されて中央に送られてイスラーム教に改宗させられ、「スルタンの奴隷(カプクル)」に加えられる。彼らの中からさらに選ばれた者が訓練を受けてイェニチェリの兵士となった。イエニチェリになる以外に、官僚に抜擢され、中には宰相に出世するものもあった。後にはイェニチェリ自身が世襲化され、デウシルメも形骸化したがオスマン帝国独特の制度として知られている。<鈴木董『オスマン帝国-イスラム世界の柔らかい専制-』 1992 講談社現代新書 p.215~/林佳世子『オスマン帝国の時代』世界史リブレット19 山川出版 p.41>デヴシルメから大宰相になる
デヴシルメで徴用された少年のうち、特に優秀な少年はトプカプ宮殿内の学校で宮廷侍従として教育され、長じるに及んで高級官僚となることもあった。彼らはトルコ人ではなく身分的には奴隷であったが、オスマン帝国の歴史の中で特に重要な働きをしており、特にスレイマン1世以降に「大宰相(ヴェズィラーザム)」となった36人のうち、5人以外はすべてデヴシルメないしなんらかの形でスルタンの目にとまった「奴隷」身分のものだった。<永田雄三他『成熟のイスラーム世界』世界の歴史15 中央公論新社 p.106>バルカン人にとってのデヴシルメ
このデヴシルメ制度が、当のバルカンの人びとにとってどうけとめらえていたのだろうか。(引用)徴用され、父母・兄弟と故郷から引き離され、異教徒の宮廷で「奴隷」とされることは、とりわけ母親にとっては耐えがたい苦痛であったにちがいない。デヴシルメの役人が来るとの報に接すると、子どもを山に隠したり、急遽割礼をほどこしてムスリムに改宗させたりした親もあったという。徴用された少年たちは集団をなしてイスタンブルへと引き立てられていった。……「血税」と呼ばれたりしたこの制度の追憶は現代でも時折よみがえる。第二次世界大戦のころのころであるが、ナチスが親衛隊を補強するためにポーランド人の子どもをさらって特殊な学校で訓練をほどこしたことがあった。ポーランド人はこの学校を「ヤンチャル」すなわちイェニチェリの学校と呼んだそうである。<永田雄三他『成熟のイスラーム世界』世界の歴史15 中央公論新社 p.107>デヴシルメがバルカンの人びとにとって否定的にとらえられていたかというと微妙な問題を含んでいる。デヴシルメによってスルタンの奴隷とされた中にも、スルタンの側近に使えて特権を与えられ、故郷の一族にもその恩恵がおよんだ例も多かったことも事実である。
Episode デヴシルメの記憶としてのドリナの橋
デヴシルメによって奴隷となりながら、宮廷で出世して高い地位を得た人物の顕著な例としては、スレイマン1世に仕えた宰相ソコルル=メフメト=パシャがいる。彼は1505年ごろボスニアのソコロヴィッチ村で18歳の時デヴシルメされ、イスラーム教に改宗させられスレイマン1世の太刀持ちとなる。やがて宰相となった彼は故郷から一族を呼び寄せ、その一族はソコロヴィッチ家といわれ、大きな影響力をもつ勢力となった。伝説によると彼がデヴシルメで徴用されて故郷を離れるときボスニアとセルビアの境を流れるドリナ川を渡った苦労を忘れず、長じてから長大な橋を架けた。それが旧ユーゴのノーベル文学賞受賞者のイヴォ・アンドリッチの長編小説『ドリナの橋』の舞台となった橋だ。ドリナの橋の正式名称は「ソコルル・メフメト・パシャ橋」である。アンドリッチの小説は1914年に橋が破壊されるまで歴史を描いている。橋は再建されたが、最近のボスニア内戦で再び破壊されてしまった。<永田雄三他『成熟のイスラーム世界』世界の歴史15 中央公論新社 p.108>参考 アンドリッチのえがいたデヴシルメ
イヴォ・アンドリッチの小説『ドリナの橋』では、冒頭近くでボスニアにおけるデヴシルメを次のように描いている。参考のために。(引用)さて、その11月のある日、荷をつんだ馬の長い列が川の左岸について、夜を過ごした。武装兵を従えたイェニチェリ軍団の隊長がコンスタンティノープルへもどる途中であった。東部ボスニアの村々で一定数のキリスト教徒の子弟たちを生身税―アジャミ・オグラン―として徴集して来た後であった。この前の徴集から6年たっていたので、今度はえらび出すのも簡単なら収穫も多かった。大した苦労もせずに、10歳から15歳までの丈夫で生きのよい男の子を、必要数だけ見つけ出したのだった。もっとも、親の中には子供を森にかくしたり、低能やびっこの真似をさせたり、さらにはぼろを着せ汚物をつけたりして、なんとか隊長の目を逃れようと努めた者も多かった。自分の子の指を切り落としてかたわにしてしまった親も何人かあった。
徴発された少年たちは長い列を組んだ小さなボスニアの馬で運ばれた。馬には果物を入れるような編んだかごが、両側にひとつずつぶらさがっている。その各々に一人の少年が小さな包みと一個の肉まんじゅうといっしょにはいっていた。……一様にぎしぎしと揺れるこのかごから、さらわれた少年たちの元気はいいがおびえた顔がのぞき出している。……
しんがりの馬の群れから少し離れた所を、三々五々と、息を切らしながら、少年たちの親や縁者がこの異様なキャラバンに加わっている。なにせ少年たちは永遠に連れ去られて行くのだ。見知らぬ世界で去勢されてトルコ人に仕立て上げられ、自分の信仰と出生を忘れてから、生涯をイェニチェリ軍団かトルコ帝国内の他の重要部署で終えるために。ついてくるのはたいてい女だった。さらわれて行く少年の母親、祖母、姉などがほとんどである。……目を涙でいっぱいにしてかごのへりから、さらわれた子供の頭をみようと努めるのであった。……しかし道は長く、地面は固い。女のからだは弱くオスマンたちは頑健で無慈悲だ。しだいしだいに女たちは遅れがちになり、走るのに疲れ、鞭に追われて、一人また一人と見込みのない努力をあきらめていく。ここヴィシェグラードの渡し場では、どんな強情な女でも行く手をさえぎられた。舟には乗せてもらえないし、川をこす道はないのだもの。……<イヴォ・アンドリッチ/松谷健二訳『ドリナの橋』1966 恒文社 p.40-41>