マムルーク
イスラーム各王朝に仕えたトルコ人などの奴隷兵士。次第に政治面でも台頭し、13世紀にはエジプトを中心にマムルーク朝を成立させた。
マムルーク騎士の訓練風景 14世紀
佐藤次高『マムルーク』(旧版)表紙
イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラヴ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。
右の図は、ムハンマド・ブン・イーサー・アルアクサラ-イー(1348年、ダマスクス没)著『騎士道(フルースィーヤ)の書』に描かれたマムルーク騎士の訓練風景。4人の騎士が剣と盾を手に馬場を回っているが、いずれも手綱を右腕にかけている点に注意。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 表紙より>
トルコ系マムルーク
イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。マムルーク朝の成立
セルジューク朝、アイユーブ朝ではスルタン権力を支える存在となり、ついに1250年トルコ系マムルーク出身の軍人がアイユーブ朝に代わりエジプト・シリアを支配するマムルーク朝を成立させた。右の図は、ムハンマド・ブン・イーサー・アルアクサラ-イー(1348年、ダマスクス没)著『騎士道(フルースィーヤ)の書』に描かれたマムルーク騎士の訓練風景。4人の騎士が剣と盾を手に馬場を回っているが、いずれも手綱を右腕にかけている点に注意。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 表紙より>
マムルークの終わり
1517年にオスマン帝国によってマムルーク朝は滅ぼされたが、オスマン帝国の支配下に入ったエジプトではマムルーク軍団が存続し続けた。1805年にエジプトの実権を握ったムハンマド=アリーは、エジプトの近代化を進める中で、1811年にマムルークの一掃を決意し大弾圧を行い、それによってほぼ消滅した。マムルークの消滅
エジプト総督のムハンマド=アリーが、1811年に旧勢力の排除をねらい実行した。これにより9世紀からイスラーム世界で続いたマムルークの歴史が実質的に終わった。
オスマン帝国は1517年マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを征服したが、マムルーク出身のアミールを総督に任命し間接的な支配を行っていた。またマムルーク軍人にもオスマン帝国の代理人として徴税権が与えられていた。
1798年、ナポレオンのエジプト遠征に始まるエジプトの混乱の中から台頭したムハンマド=アリーは、1805年にエジプト総督となって実質的独立を果たし、西欧諸国にならった富国強兵策を実施してエジプトを近代化しようとした。その際に、大きな障害となった旧勢力のマムルークを一掃することが必要と考え、1811年3月、式典を装っておよそ470名のマムルークとその従者をカイロの城塞に招き、アルバニア軍団を用いて彼らを一挙に殺害した。
これは「城塞の謀計」といわれるが、すぐに一掃されたわけではなく、その後も残ったマムルークを追求する一方、ムハンマド=アリーはエジプト農民とスーダン遠征によって獲得した黒人奴隷兵とからなる新軍(ニザーム・ジャディード)を編成し、新しい軍事力とした。これによって9世紀以降、イスラームの国家と社会で多彩な活動を繰り広げてきたマムルークは長い歴史を閉じることとなった。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 p.182>
1798年、ナポレオンのエジプト遠征に始まるエジプトの混乱の中から台頭したムハンマド=アリーは、1805年にエジプト総督となって実質的独立を果たし、西欧諸国にならった富国強兵策を実施してエジプトを近代化しようとした。その際に、大きな障害となった旧勢力のマムルークを一掃することが必要と考え、1811年3月、式典を装っておよそ470名のマムルークとその従者をカイロの城塞に招き、アルバニア軍団を用いて彼らを一挙に殺害した。
これは「城塞の謀計」といわれるが、すぐに一掃されたわけではなく、その後も残ったマムルークを追求する一方、ムハンマド=アリーはエジプト農民とスーダン遠征によって獲得した黒人奴隷兵とからなる新軍(ニザーム・ジャディード)を編成し、新しい軍事力とした。これによって9世紀以降、イスラームの国家と社会で多彩な活動を繰り広げてきたマムルークは長い歴史を閉じることとなった。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 p.182>