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スレイマン1世

16世紀中ごろオスマン帝国全盛期のスルタン。地中海を勢力下に修め、ハンガリーを領有して帝国領土を拡張した。立法、行政の整備に努め立法者といわれる。神聖ローマ帝国カール5世に対抗し、フランス王フランソワ1世とは提携した。イスタンブルのスレイマン=モスクの建設など、トルコイスラーム文化の全盛期を出現させた。

 オスマン帝国の全盛期のスルタン(在位1520~1566年)。在位中、東西に勢力を広め、大帝国を建設した。
 まず1521年、ベオグラード(現在のセルビアの首都)を攻略しハンガリー進出の足場を築いた。ついで、東地中海で海賊活動を行い、地中海のムスリム商人の活動の障害となっていた聖ヨハネ騎士団の根拠地ロードス島を攻撃、1523年に制圧した。聖ヨハネ騎士団は島を立ち去り新たにマルタ島を基地としてオスマン帝国に抵抗を続ける。またエジプトの反乱にも手を焼いたが、それを鎮圧、オスマン帝国の重要な穀倉として支配した。

ウィーン包囲(第一次)

 スレイマン1世は1526年モハーチの戦いハンガリー軍を破り、神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク軍と攻防を繰り返した。時の皇帝はカール5世で、スレイマンの即位の前年に皇帝となっていた。1529年、スレイマン1世の率いる12万の大軍がハプスブルク朝の拠点ウィーンを包囲した。冬の訪れによって包囲を解いたが、このオスマン帝国のウィーン包囲は、おりからイタリア戦争宗教改革の時代で混乱しており、カール5世は国内ではプロテスタントに譲歩しなければならなくなるほどヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。
 スレイマン1世は東に転じて1534~35年にはバグダードに遠征、イラク、アゼルバイジャンからサファヴィー朝の勢力を駆逐し、1538年には艦隊をインド洋に派遣、ポルトガルのインド貿易に対抗してイエメンを占領し、その紅海とペルシア湾への侵入を許さなかった。西インドのポルトガルの拠点ディウの占領には失敗した。

プレヴェザの海戦

 同じく1538年、地中海ではプレヴェザの海戦でハプスブルク帝国・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国などの連合海軍に勝ち、地中海を「スレイマンの海」と化した。この間、ヨーロッパでハプスブルク家と対立していたブルボン朝のフランスとは手を結び、フランソワ1世に通商上の特権を恩恵として与えた。これが後のカピチュレーションの原型となるものであった。

立法者スレイマン

 スレイマン1世は国内政治では「立法者(カヌーニー)」と言われ、オスマン帝国の統一的支配機構の整備に務めた。ティマール(知行)制のもとになる検地が行われた。またオスマン帝国の始めから続いた貨幣の鋳造を続け、租税制度を整備して、州制度を拡大、スルタン専制政治を完成させた。
 1557年には、建築家ミマーリ=シナンに命じて、イスタンブルにスレイマン=モスクを建設した。これはビザンツ建築であるハギア=ソフィア聖堂に対抗して、オスマン帝国の建築技術の高さを示す文化遺産となっている。
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書籍案内

三橋冨治男
『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』
新・人と歴史25
2018 清水書院