バルトロメウ=ディアス
15世紀後半のポルトガルの航海者で、1488年、ヨーロッパ人として初めてアフリカ南端の喜望峰に到達した。
ポルトガルのジョアン2世は、1482年に黄金海岸(現在のガーナ)のエルミナに要塞を築き、奴隷貿易を開始、さらにアフリカ西岸への艦隊の派遣を続けた。1485年にはコンゴ、86年にはベニンに到達した航海者から、アフリカ奥地のキリスト教徒の存在(おそらくはアビシニア、つまりエチオピアのキリスト教徒のことであろう)が報告され、プレスター=ジョンを求めるジョアン2世は二つのルートで探検隊を派遣することとした。ルートの一つ、地中海を横断して陸路をとってインドを目指したのがコヴィリャンであり、大西洋を南下してアフリカ南端を廻ってインドに抜けるコースの探検に派遣されたのがバルトロメウ=ディアス(バーソロミュー=ディアス)であった。彼の父のディニス=ディアスは、1445年にヴェルデ岬に到達した航海者だった。
ディアスの喜望峰到達は大航海時代の幕開けを告げることとなり、1498年のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓の前提となった。
バルトロメオ=ディアスはその後、1497年にはインドに向かうヴァスコ=ダ=ガマの艦隊に加わり途中まで同行した後、ギニア地方のエルミナ要塞へ向かった。さらに1500年にはカブラルの艦隊に同行、ブラジルに到達した後にインドに向かい、喜望峰を廻ったところで嵐に合い、遭難死した。
なお、バルトロメオ=ディアスの孫のパオロ=ディアスは、アフリカ西海岸、コンゴ南部の広大なアンゴラを植民地化する先頭に立ち、現地人との戦いで死んでいる。
喜望峰に到達
ディアスは1487年8月にリスボンを出航、途中、嵐にあって13日間流され後に、それまで左舷に見えていた陸地が右舷に見えていたので大陸の東岸に出たことに気付いた。海岸線が北東に延びている地点に漂着、そこから引き返して1488年1月、アフリカ大陸南端の岬であることを確認した。彼はその岬を「嵐の岬」と名付けたが、その報告を受けたジョアン2世は「喜望峰」と命名し直した。ディアスの艦隊は1488年12月にリスボンに帰着したが、華やかなディアスの帰港の姿を見物する人波の中にコロンブスの姿があった。<青木康征『海の道と東西の出会い』世界史リブレット25 1998 山川出版社 p.36>ディアスの喜望峰到達は大航海時代の幕開けを告げることとなり、1498年のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓の前提となった。
ディアスの航海
1487年の8月、バルトロメウ=ディアスはカラベル船2隻と補給船1隻を率いてリスボンを出航。おそらくパルマ岬からコンゴ河口へ直行し、そこから海岸線に密着しながら南に向かった。当時の習慣で海岸の地形にその発見日にちなむキリスト教の聖人の名を付け、連れてきた黒人を上陸させてポルトガル人の来着を知らせ、あわよくば内陸にいると思われるプレスター・ジョンの耳にもとどけようとした。カボ・ダ・ヴォルタでは持参した石柱を目印に建てた。そこを離れたころから時化が続き、針路から遙かに吹き流されてしまい、次に陸地を発見したときは船は陸地の東側に回っていることに気がついた。喜んだディアスは上陸して石柱を建てた(パドローネ岬)。しかし乗組員は嵐の中の航海に疲れ果て、補給船にもはぐれてしまい、ほとんど反乱寸前の状態になり、ディアスに帰国を迫った。ディアスは譲歩を余儀なくされ、パドローネ岬約50マイルの地点で反転した。岬に建てた石柱を眺めたディアスは「その石柱が恰も永の遠島に処せられた息子ででもあるかの如く、声を放って慟哭したという記録が残っている。帰国の途中、この小艦隊は、彼らが捜し索めていた偉大な岬を発見した。彼が遭遇した荒天にちなんでディアスはこれをカボ・トルメントソ(嵐の岬)と命名し、聖フィリップに捧げる石柱を樹てるのに上陸した。」12月、テージョ川に帰り着き、16ヶ月に及ぶ航海を終えた。ポルトガル宮廷におけるディアス歓迎や恩賞についての記録は何もない(ポルトガルの秘密主義)のは当然ながら、「彼の航海こそ実にインドへの路を遂に現実のものに変えたのであり、国王ジョアン2世は自ら長年追求して来た願望の成就を見越して「嵐の岬」を「喜望峰(カボ・ダ・ボア・エスペランサ)」という人を鼓舞する、そして永続性のある名に改めたのである。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.58-59>バルトロメオ=ディアスはその後、1497年にはインドに向かうヴァスコ=ダ=ガマの艦隊に加わり途中まで同行した後、ギニア地方のエルミナ要塞へ向かった。さらに1500年にはカブラルの艦隊に同行、ブラジルに到達した後にインドに向かい、喜望峰を廻ったところで嵐に合い、遭難死した。
なお、バルトロメオ=ディアスの孫のパオロ=ディアスは、アフリカ西海岸、コンゴ南部の広大なアンゴラを植民地化する先頭に立ち、現地人との戦いで死んでいる。