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アンゴラ

アフリカ西岸の赤道の南に広がる。16世紀以来ポルトガル人が進出して奴隷貿易を展開し植民地化した。1974年の本国の民主化に伴い、75年に独立した。独立後、内戦が始まり、南アフリカの介入などで長期化し、91年まで続いた。

アンゴラ GoogleMap

ポルトガルの植民地化

 大航海時代のポルトガルは、1490年代にコンゴ王国のキリスト教化による鉱山開発などを試みたが、現地人の抵抗でうまくいかず、セバスチャン王はコンゴ王国の一部であったアンゴラ地方の武力征服を決意し、パオロ=ディアス(バルトロメウ=ディアスの孫)を派遣した。ディアスは1560年に「イエズス会宣教師と一旗組の一団を率いて」クヮンサ川河口まで航行、そこから奥地へ入り、反乱を鎮圧して司祭達を残して帰国した。1574年に再び派遣され、サン・パオロ・デ・ロアンダの海港を築造した。これが現在のアンゴラの首都ルアンダである。彼はブラジルのやり方を踏襲して海岸地方を世襲藩領に分割、原住民を懐柔していった。「しかし数年も経つとコンゴの王様も酋長達も、ディアスが彼等の土地を奪いつつあるという事実にめざめ、そして以後ポルトガル人とアフリカ人の間には何年もの戦争が続き、彼等の進撃は専らクヮンサとルカーラの両河にそう地域」に限られ、ディアス自身も野戦で死んだ。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.159> → ポルトガルのアフリカ植民地支配

ブラジルへの奴隷輸出

(引用)植民地の発足当初から、アンゴラはブラジルと極めて共通したものを持っていた。農業経済でブラジル方式を手本にしただけでなく、アンゴラ-ブラジル間には密接な商業的交流があった。その相互依存は奴隷貿易において最も顕著であり、ロアンダ(ルアンダ)は早くからアフリカ奴隷市場としてサン=トメ島の地位を奪っており、黒人奴隷の即売先としてはブラジルの甘蔗栽培地区があったから、ロアンダからバイアへの奴隷輸出の航海は当たり前のことであった。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.159-160>

独立運動

 1885年のアフリカ分割に関するベルリン会議の結果、正式にポルトガル領となった。その後、第二次世界大戦後の1951年にはモザンビークなどとともにポルトガルの海外州とされ、ポルトガル本国の貧困層が多数移住し、入植した。
 50年代から独立運動が始まったがサラザール政権は軍隊を投入して厳しく弾圧した。アフリカの年といわれたアフリカ諸国の独立の相次いだ翌年の1961年には、中心都市ルアンダで暴動が起き、独立運動はネトーの組織したアンゴラ解放人民運動(MPLA)が指導した。アンゴラの解放闘争はベトナム戦争の時期と重なり国際的な支援を受けて展開された。1974年にポルトガルの民主化(ポルトガル革命)が起こって、独裁体制が倒れると新政権は植民地放棄を声明、翌75年にモザンビークなどとともに独立した。

アンゴラ内戦

 MPLAは社会主義を掲げて国作りをすすめたが、右派は反政府活動を展開してアンゴラ内戦となった。また南アフリカ共和国の白人政権はアンゴラに介入、隣接するナミビアから侵攻した。キューバとソ連および東欧社会主義諸国が政府軍を支援、中国は南ア政府と共に反政府軍を支援し、内戦は国際的な問題となった。ようやく1991年に和平成立、94年に南アに黒人のマンデラ政権が誕生したので平和が実現した。

Episode キューバの黒人兵士、「祖先の地」で戦う

 アンゴラ内戦では社会主義をめざす政府軍をカストロ政権のキューバが支援、右派軍と戦った。キューバ兵の多くは、かつてポルトガルがアンゴラの地からキューバに送り込んだ大量の黒人奴隷の子孫だった。「彼らキューバの兵士たちは「祖先の地」の防衛のために大西洋を渡り、アンゴラの「兄弟姉妹」とともに戦ったのである。」<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 峯陽一執筆> 
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書籍案内
ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』
ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』
1985 筑摩書房

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史』
1997  講談社現代新書