カブラル
ポルトガル人航海者。1500年にブラジルに到達した。さらに、インドに行きカリカットで武力を行使し香辛料貿易の優位を実現した。
カブラルは殆どの教科書が「1500年にブラジルに漂着した」としか記述がない。そのため、彼は大航海時代の中の航海者としては失敗者で、ブラジル発見は偶然のこととされがちであるが、実は漂着ではなく意図した航海の結果であったという見解もある。また彼の船団はその後も航海を続け、喜望峰を回ってインドに赴いている。実は彼の艦隊はポルトガルの第2回目のインド派遣艦隊であり、第1回のヴァスコ=ダ=ガマがイスラーム商人の妨害で貿易の実績を上げられなかったので、武装船団を率いて妨害者を排除するのがその目的であった。事実カリカットに到着したカブラル艦隊は、実力を行使して市を砲撃ている。また帰路には大量の香辛料をリスボンにもたらし、インド洋交易の実利を最初にあげた人物であった。つまり、ポルトガル(さらに言えばヨーロッパ)が、インド(広く言えばアジア)に対して、武力を行使して進出を図った最初の例なのである。 → 大航海時代の航路図のF
カブラル艦隊のインド派遣
ポルトガルのマヌエル王が派遣したヴァスコ=ダ=ガマ船団はインド航路を開拓し初めてカリカットに到達したが、その地でイスラーム商人の勢力に阻まれ、思ったほどの利益を上げることができなかった。インド交易のためにイスラーム勢力を排除する必要を知ったポルトガルは、直ちに武装船団を送り、利益の独占を図った。その目的のために1500年にインドに派遣されたのがカブラルである。カブラル艦隊は13隻の大艦隊で、悉く舷側砲(ガンネル)で武装し、1200人が乗り組んだ。青年貴族ペドロ=アルヴァレス=カブラルが指揮を執り、バルトロメウ=ディアスもその船団に加わった。ブラジル到達
カブラル艦隊は1500年3月8日リスボンを出発、ガマの航路と同様に、アフリカ沿岸ではなく大洋のただ中の大圏コースに沿って南南西に向かい、4月22日に陸地を発見して上陸し、その地に「テラ・ダ・ヴェラ・クルス(真実の十字架の地)」と命名し、その発見を報じるために1隻をポルトガルに送り返した。その地は南アメリカ大陸の現在のブラジルの東端であった。(引用)カブラルによるブラジル海岸のこの部分の発見は、その後長い間、地理史家の意見を二分して来た。ある派は、この発見は偶然であり、全く航海の必要上とられただけの西寄り針路を保持し続けた結果に過ぎないとし、別の派は、陸地を発見するための意識的な試みであって、陸地の存在は少なくとも予測されていたのだ、と譲らない。僭越ながら私は後者の見解に与するものであるが、しかしこれは独断論は成立し難いということに落ち着くのが精々かも知れない。<ボイス・ペンローズ『大航海時代』1952 荒尾克己訳 筑摩書房 p.69>
インドへの航海
南回帰線より遙か南で大西洋を横断しようとして、すさまじい暴風雨に遭遇した。4隻が沈没し、他は散り散りになってしまい、バルトロメウ=ディアスもこの時海の藻屑と化した。苦難の中で喜望峰を回り、モザンビークで残った7隻で態勢を整え、アラビア海に入り、1500年8月末にゴアに近い地点に到着した。この6ヶ月という所要時間は、以後蒸気船の時代まで、インド航路の標準所要日数となった。カリカットを砲撃
カリカットまで南下し、航海の商業目的に従い、人質確保の予防措置をとった後、藩主サムリと会見、散々またされた後一つの協定を結んで商館の建設を認められた。しかし、カブラルがサムリへの贈り物として象一頭を確保すべくムスリム商人の船を拿捕したことからムスリム商人がカブラルの部下50人を殺すという事件が起こり、その報復としてカブラルはムスリム商人の船を焼き払い、カリカットの町を砲撃した。これがインドにおけるアラビア商人との戦争の第一歩であった。この砲撃でカリカットは瓦礫の街と化して交易はできなくなったので、カブラルはその南のコチンに移動、ポルトガルの砲撃を恐れたコチンの領主から大量の香辛料を買い付け、1501年6月30日にリスボンに帰着した。“ヴェネツィア最悪の凶報”
南大西洋でカブラル艦隊から離脱したディオゴ=ディアス(バルトロメオの子)の船は、喜望峰を大きく迂回し、アラビア海に入ってマダガスカルを発見した。さらに北西に針路をとり、ソマリア海岸に達した。こうしてカブラル艦隊は、ブラジル、マダガスカル、ソマリアという三箇所の未知の土地を発見するという地理上の成果を上げた。しかしそれよりも重要なことは、インドとの香辛料貿易が本格化したことである。インドから大量の胡椒がリスボンにもたらされ、1501年のうちにアントワープに達したことから、それから間もなくドイツやイタリアの金融業者がリスボンに続々とやってくるようになった。それはそれまで東方貿易の利益を独占していたヴェネツィアにとっては大きな危機の到来を意味していた。「カブラル帰還のニュースは、“ヴェネツィア共和国始まって以来の凶報”と当時の日録作者プリウリが記した如く、大変が災厄として受け取られた。」<ボイス・ペンローズ『大航海時代』1952 荒尾克己訳 筑摩書房 p.71> → 商業革命