価格革命
新大陸との交易が始まった結果起こったヨーロッパの価格変動。銀の価格が下落し、物価が2~3倍に高騰したこと。
スペインが新大陸を征服し、ポトシ銀山などを支配することによって、16世紀の中ごろから、大量の銀がスペインを経由してヨーロッパにもたらされた。その結果、物価が急上昇し、およそ2~3倍に高騰した。このように急速に価格が上昇した(いわゆるインフレーション)ため、地代収入に依存している領主階級の没落を決定的にし、封建社会の崩壊を早めた。特に西ヨーロッパでの穀物が不足し価格が上昇したことはドイツ東部やポーランドやハンガリーなど東ヨーロッパの穀物需要を増大させ、領主による再版農奴制を成立させる背景ともなった。ただし、現在では16世紀の物価上昇の原因は、銀の流入ではなく、急激な人口増加にあったと考えられている。
アメリカの銀はインフレをもたらしたか 16世紀のヨーロッパが極端なインフレの時代であったことは疑いないが、その原因をアメリカから流入した銀にあったというハミルトンのテーゼは、今日では支持されていない。仮に対象をスペインに限定しても、流入した銀の量とスペイン国内の物価指数の相関関係が見られないからである。イングランドでも物価が5倍になっているが、これはヘンリ8世が王室財政を救済するために貨幣悪鋳政策を採ったためである。
インフレの原因は何か アメリカ銀の流入が犯人でないとすれば、16世紀の長期的なインフレの真犯人は何なのか。近年の人口史の研究によれば、16世紀のヨーロッパは急激な人口増加の時代であり、ロシアを除くヨーロッパでほぼ2倍の8500万になったと推定されている。増加する人口に、食糧供給が追いつかない。労働力が過剰になったから、賃金は物価に比べて半分程度しか上昇しなかった。長期的なインフレの原因は、ヨーロッパの生産力を上回る過剰人口にあったらしい。
銀はどこへ消えたか それでは、スペインの銀はどこに消えたのか。スペイン宮廷の奢侈のため浪費されたというのは誤解であって、実はスペインが抱えていた戦争のための戦費として使われたのだった。オランダおよびイギリスとの戦争に加え、地中海でのオスマン帝国との戦争での出費がスペイン財政の最大のものであり、カルロス1世およびフェリペ2世は税収と、アメリカからの銀でまかなっていたのだが、それでも不足してヨーロッパの銀行家から多額の借金を抱えていた。そのため、たびたび破産宣言して、借金の支払いを停止しなければならなかった。<大久保桂子『ヨーロッパ近世の開花』世界の歴史17 1997 中央公論社 p.158-170>
価格革命の真相
ポトシ銀山が産出する銀は、フェリペ2世時代のスペインの国力の象徴となったばかりか、ヨーロッパの経済をも左右した。16世紀から17世紀半ばの160年間で、ヨーロッパの銀の保有量の三倍には匹敵する銀が、アメリカからスペインのセビーリャ港に運ばれたと推定されている。アメリカの経済学者E.J.ハミルトンは、1929年にアメリカからもたらされた大量の銀が西ヨーロッパの価格を、16世紀の100年間でほぼ5倍にするという影響を与えたことを立証し、そのテーゼは「価格革命」Price revolution として有名になった。アメリカの銀はインフレをもたらしたか 16世紀のヨーロッパが極端なインフレの時代であったことは疑いないが、その原因をアメリカから流入した銀にあったというハミルトンのテーゼは、今日では支持されていない。仮に対象をスペインに限定しても、流入した銀の量とスペイン国内の物価指数の相関関係が見られないからである。イングランドでも物価が5倍になっているが、これはヘンリ8世が王室財政を救済するために貨幣悪鋳政策を採ったためである。
インフレの原因は何か アメリカ銀の流入が犯人でないとすれば、16世紀の長期的なインフレの真犯人は何なのか。近年の人口史の研究によれば、16世紀のヨーロッパは急激な人口増加の時代であり、ロシアを除くヨーロッパでほぼ2倍の8500万になったと推定されている。増加する人口に、食糧供給が追いつかない。労働力が過剰になったから、賃金は物価に比べて半分程度しか上昇しなかった。長期的なインフレの原因は、ヨーロッパの生産力を上回る過剰人口にあったらしい。
銀はどこへ消えたか それでは、スペインの銀はどこに消えたのか。スペイン宮廷の奢侈のため浪費されたというのは誤解であって、実はスペインが抱えていた戦争のための戦費として使われたのだった。オランダおよびイギリスとの戦争に加え、地中海でのオスマン帝国との戦争での出費がスペイン財政の最大のものであり、カルロス1世およびフェリペ2世は税収と、アメリカからの銀でまかなっていたのだが、それでも不足してヨーロッパの銀行家から多額の借金を抱えていた。そのため、たびたび破産宣言して、借金の支払いを停止しなければならなかった。<大久保桂子『ヨーロッパ近世の開花』世界の歴史17 1997 中央公論社 p.158-170>