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金と並ぶ貴金属。貨幣の材料、装飾品、生活器物、さらに工業原料として使用されてきた、人類にとって重要な金属。

 金と並んで古くから貴金属として尊重され、貨幣の原料とされてきた。最も古い銀貨はリディアの銀貨とされ、その影響を受けたギリシアでも銀貨が鋳造された。アテネの所有するラウレイオン銀山では多くの奴隷を使役して、銀が採掘されていた。
 貨幣は小アジアのリディア王国で最初に鋳造されたが、ギリシアにおいても貨幣が発行された。
 ギリシア・ローマではドラクマと言われる銀貨が流通していた。また西アジアではササン朝ペルシア以来、ディルハムと言われる銀貨が現在のイラン・イラクで流通していたが、イスラーム帝国が成立すると、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクがディーナール金貨とともにディルハム銀貨をダマスクスで鋳造した。

銀(ヨーロッパ/ラテンアメリカ)

15世紀末から16世紀前半、西洋における銀生産は南ドイツが中心であった。16世紀中頃からスペイン領南米大陸のポトシ銀山などで大量に産出され、世界に流通するようになった。

南ドイツ産の銀の流通

 中世ヨーロッパでは南ドイツのアウクスブルクが銀の産地として知られ、その銀山を所有したフッガー家が巨大な富を築いた。ヨーロッパの銀生産における精錬技術は銀鉱石の銀を水銀でアマルガムとし、水銀を絞り出して銀を取るアマルガム法であった。また銀鉱山ではアルキメディアン・スクリューという排水器を使用していた。これらは日本の銀山にはない、高い技術であった。フッガー家は大規模経営を営んで銀を一手に握り、その銀の力で15世紀末から16世紀中ごろまでのポルトガルやスペインの重商主義政策に基づく海外進出の資金とされた。
水銀アマルガム法 銀鉱石を砕石して粉末にし、水銀と混ぜて水銀アマルガムを作り、それを熱して銀を得る方法で、その工程は次のように行われた。
  1. 鉱石をハンマーで砕き、銀の含量の高い部分を選別する。
  2. 水車を利用して鉱石を粉砕する。
  3. 鉱石の粉をふるいにかけ、木製か石製の容器で塩水と水銀を加える。
  4. 泥状になるまでよく攪拌し、水銀アマルガムを作る。
  5. 水流で泥を洗い出し、沈殿させて水銀アマルガムを抽出する。
  6. 水銀アマルガムを布でくるみ、水分をとる。
  7. 水銀アマルガムを加熱して銀を分離する。
 水銀アマルガム法は、品位の低い鉱石からも純度の高い銀を抽出できる利点があった。しかし、銀の抽出に不可欠な水銀が安価で安定的に供給される必要があること、粉塵や水銀による健康被害が出ることが問題であった。

南米ポトシ銀山

 1555年、セビリア生まれのスペイン人がメキシコのパチェカ鉱山で始めたが、アイデアはドイツ人であったという説もあり不明である。ポトシ銀山では1563年にリマの南西で発見されたウアンカベリカの水銀鉱山の水銀が使われた。水銀アマルガム法が普及すると、銀鉱石・水銀を採掘運搬し、精錬所を作り、水車を動かす水を得るためにダムを造ると行った総合的な開発が必要となった。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.115>
銀艦隊と価格革命 大航海時代に入り、アメリカ大陸に進出したスペインは、1545年に発見されたポトシ銀山などを開発、インディオの労働力を用い、水銀アマルガム法の技術で銀の生産を増やしていった。新大陸の銀はスペイン銀と言われて世界中に広がり、大量にヨーロッパにもたらされようになった。アメリカ大陸からヨーロッパに銀を運ぶスペイン船は銀艦隊といわれたが、16世紀末から17世紀にオランダ・イギリスが台頭し、私拿捕船(海賊行為を認められた船)に襲われるようになる。ヨーロッパへの新大陸産の銀の大量流入は、物価を急騰させることとなり、いわゆる価格革命が起こり、ヨーロッパ社会の構造転換の一つの背景となった。銀は世界的にも基本通貨としての役割をもっていたが、その大量流通によって銀価格が下落したため、次第に本位貨幣としての位置づけはなくなり、1816年のイギリスに始まる金本位制に世界の大勢は移行していく。 → メキシコ銀  日本銀

銀(中国と日本)

16世紀30年代から、日本の銀生産が急増。明にもたらされ、銀が秤量貨幣として重要な通貨となる。

 の通貨政策は宋を継承し、初めは銅銭を鋳造していた。洪武帝の洪武通宝をはじめ、歴代皇帝は年号入りの銅銭を鋳造し、そのうち洪武通宝は日本にも多数輸入され、広く流通した。しかし15世紀ごろから生産力の発展に伴って商取引が活発になると、低額の銅での取引は運搬に不便なので、次第に銀が使用されるようになった。16世紀初頭には、まず朝鮮で銀産出が盛んになり、端川(タンチョン)銀山などが開発され、中国や日本に密貿易を通じて流出した。しかし、1530年代から日本で銀の産出が急速に増大した。

日本銀の増産

 中国での銀の産出量は少なかったので、1530年代に日本産の銀(日本銀)への需要が急速に高まり、さらに銀生産技術で灰吹き法という製錬技術が広がって急速に増産された。特に石見銀山の銀は中国向けに輸出され、中国にもたらされた日本銀は丁銀(ちょうぎん)といわれ、通貨として広く流通した。16世紀末から17世紀にかけては日本は世界有数の銀生産国となり、中国では新大陸産のスペイン銀貨に代わって輸入量が増加した。しかし、17世紀末ごろから銀鉱脈が枯渇しはじめ、18世紀には日本銀は急速に減少する。
※中国で銀の需要が高まった理由 16世紀の明朝は全盛期が過ぎ、モンゴルのアルタン=ハンの侵攻を受け、北方の防備に多額の費用を必要としていた。明政府は北方防備のための費用を、運びやすい銀で賄おうとして銀による課税を強めた。一方、民間では江南の綿業をはじめ生産力が向上し、の需要が増大していた。こういった事情から銀が必要とされたにもかかわらず、当時は海禁がとられ、民間貿易は禁止されていた。そのため、海禁を破って日本から銀を密輸入しようという動きが強まり、それが後期倭寇の活発化の意味であった。この時期の倭寇は中国人を主体として日本産の銀を中国に密輸入しようという動きが主たる動機であった。<岸本美緒『東アジアの近世』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12> → 北虜南倭

新大陸からもたらされた銀

 16世紀に中国貿易を開始したポルトガルとスペインは中国産の絹織物や生糸、陶磁器を買い付け、その対価として銀で支払った。はじめは南ドイツ産の銀を用い、ついで日本との交易で得た日本産の銀を中国にもたらした。その背景には16世紀末頃から日本銀の生産が急増したことがあった。一方、スペインが植民地化した新大陸の南米で1545年ポトシ銀山が発見され、さらにメキシコ産のメキシコ銀の生産量が急増し、それを原料に鋳造されたスペイン銀貨が太平洋貿易(ガレオン貿易)を通じて中国にもたらされ日本銀を上まわるようになった。

中国での銀の流通増加

 明では銀貨は発行されず、銀は馬蹄銀と云う形で秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)として流通した。銀の流通は次第に銅銭を上回り、明清時代を通して中国の基本通貨となった。1580年代に全国に施行された新税制である一条鞭法は、そのような銀の流通に対応し、人頭税(丁銀)と地税(地銀)をともに銀納として一括して納付するものである。
 清朝は康煕帝の時に台湾を征服し、三藩の乱を鎮圧して全土を統一した後、それまでの海禁政策を改め、1685年に上海、寧波、漳州(厦門)、広州の四港に海関を設けて互市貿易(従来の冊封関係との朝貢貿易以外の貿易)を管理した。それによって銀の流入は更に増加し、銀流通の普及を背景に、18世紀初頭には税制は人頭税を無くし地税に組み入れて銀納させる地丁銀制が施行されるようになった。
 このような外国貿易の利益を独占するため貿易管理を強化しようとした清朝は、1757年に貿易港(海関)を広州一港に限定し、貿易は公行という特許商人だけに認め、自由な貿易や海外渡航は禁止され実質的な鎖国体制に入った。

銀の流出の増加

 17世紀からの清朝でも当初は明代と同じく、銀が一方的に中国に流入する状況が続いた。しかし、貿易相手国はポルトガル・スペインからイギリス・オランダ・フランスに移行してゆき、18世紀中ごろ、イギリスに産業革命が始まると、アジア貿易の形態も一変した。
アヘン密輸の始まり 当初、イギリス(東インド会社)は中国との貿易において、中国茶の需要増大に伴い、茶を買入れて代価の銀を支払うという形態をっていたために、一方的な輸入超過に陥っていた。この状況を打破するため、国内の工業製品である綿布・綿織物の売り込みをはかったが、中国では綿布は売れず、一方的な輸出超過、銀の中国流入が続いた。そこでイギリスは19世紀初めからインド産のアヘンを中国に密輸する三角貿易(17~18世紀)を開始、そのため逆に中国の銀の流出が急激になった。

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青木康征
『南米ポトシ銀山』
2000 中公新書

ポトシ銀山の全容を解説するだけでなく、スペインのインディオ支配の実態を具体的な数値を挙げて論じている。