ポトシ銀山
1545年以来、スペインが経営した南米(現在のボリビア)の銀山。産出した銀はスペイン帝国の経済を支え、さらにヨーロッパに価格革命をもたらした。
ポトシ銀山
ポトシ銀山の発見
ポトシは標高4000mを超すアンデス山脈にあり、山そのものは800m程度である。1545年4月、グァルパという名のインディオがリャマを追って山に入った際に銀鉱を発見した。それがスペイン人の耳に入り、銀鉱床を確認したスペイン人が採掘権を取得した。その後、次々と人びとが集まり、47年にはスペイン人2千人、インディオが1万2千人、鉱石掘りに従事した。当初はラプラタ(後のアルゼンチン)の行政下にあったが、1561年に財政難に苦しむ王室に13万ペソを献上して分離し、フェリペ2世から「帝国町ポトシ」の名を授かり、翌年には市会が誕生した。その後もポトシの人口は増え続け、最盛期の1650年には16万となった。当時、マドリッドは15万5千、セビリアは18万、ミラノは29万、ロンドンは22万5千と推計されている。エンコミエンダ制の導入
西インド諸島やメキシコなどのスペイン植民地では、1503年からエンコミエンダ制によって現地のインディオを労働力とすることが認められていた。これは、スペイン人入植者に対し、現地人をキリスト教化するすることを預託する代償として、現地人を労役に従事させることのできる制度であり、事実上の強制的な労働が可能な制度であった。エンコミエンダ制は宣教師ラス=カサスのように、非人道的でありインディオ人口の減少につながるという批判が強かったことと、しばしばエンコンメンデロ(エンコミエンダ制を認められた入植者)が私腹を肥やそうとして王室の統制に服さないことがあったため、本国のスペイン王室は、制度を廃止し、農園や鉱山の直接管理することをめざしていたが、ポトシ銀山が発見され、有望な銀山として急速に増産が望まれると、労働力の不足を補うため、エンコミエンダ制の導入を認めた。エンコミエンダ制の行き詰まり
1549~50年にかけてポトシは銀ブームにわき、総督ラ=ガスカはエンコンメンデロに対し、保有するインディオの10分の1に限ってポトシ銀山で働かせることを認めた。しかしこのような制度は死文となり、実際には約5000人のインディオ(家族を併せると2万~2万5千)がポトシに送り込まれた。そのすべてが強制労働であったわけではないが、ほとんどはケンコンメンデロに恣意的に使役される状態であった。しかし、16世紀後半に入ると、インディオの反乱の頻発、エンコンメンデロの本国に対する不満(彼らは権利の永久世襲化を要求したが本国政府はそれを拒否していた)などから、清浄扶南が続くなか、ポトシ銀山でもエンコミエンダ制のもとでのインディオの人口減少による労働力不足などから生産量が減少し始めた。
水銀アマルガム法とミタ労働の導入
1572年、ペルー副王トレドはポトシ銀山の再興のため、二つの手を打った。一つは銀鉱石から水銀を用いて銀を抽出する「水銀アマルガム法」という技術の採用と、新たな労働力確保のため、ミタ労働を導入したことである。この方策が成功し、ポトシ銀山の銀生産量は急速に復興し、銀は再び大量にヨーロッパにもたらされることになった。水銀アマルガム法 銀鉱石を粉砕した粉末に水銀を加えて泥状にし、沈殿させて水銀アマルガムを作り、加熱して銀を分離するという銀抽出法。鉱石を粉にすることで低品位の鉱石からも銀を抽出できる利点がある。但し安定して供給するには水銀の供給が必要である。ポトシ銀山では、1563年に発見された、リマの南西のウアンカベリカの水銀鉱山の水銀が使われた。
ミタ労働 指定された16地区のインディオの18歳から50歳までの男子の7分の1を、一年交替で働かせる制度。ミタ労働に就くインディオはミタヨといい、集落の長であるカシケに引率される。賃金は支給されたが食費をまかなう程度であったため、ミタヨは非番の日も労働した。またポトシ銀山までの移動費用も途中から自己負担となった。
インディオの血と汗の結晶
ポトシ銀山では16世紀の半ばにエンコミエンダ制は廃止されたが、代わって導入されたミタ労働もインディオにとって強制労働以外の何ものでもなかった。スペイン人がこの制度を導入した前提は、「インディオは怠惰であり働く能力に欠けている」という思い込みであり、またポトシ銀山では黒人奴隷が少なかった(存在しなかったわけではない)のは、高地で寒冷な気候が合わないという理由であった。スペインの本国にも、ペルー副王領にもミタ労働の非人道的な実態を批判する声もあったが、ポトシ銀山で利益を上げる入植者はそれが不可欠であると主張し、彼らからの税収を財源としていた本国政府、副王政府も廃止にには踏み切れなかった。ポトシ銀山とウアンカベリカ水銀鉱山では、ミタヨは過酷な行動での採石、粉じんの吸引、水銀の中毒などによって多くが命を落とした。ある修道士はポトシ銀山を<地獄の入口>、ウアンカベリカ水銀鉱山を<インディオの墓場>と表現し、そこで産出する銀は<インディオの血と汗の結晶>と表現した。アントニオ・ラ・カランチャ師は次のような言葉を残している。
(引用)精錬所で挽かれて粉になったのは鉱石ではなく、インディオの生命である。1ペソ銀貨の1枚1枚にインディオ10人の生命がこもっている。山にこだまするたがねの音はインディオの悲鳴であり、うめき声である。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.129>
ミタなくしてポトシなし
ポトシ銀山でインディオにたいするミタ制(ミタ労働)は、実体としては奴隷制と変わらなかった。(引用)ポトシ銀山での労働は、坑内での銀採掘、鉱石の破砕、銀精製などにわかれていたが、総じてその労働は過酷をきわめた。とくに坑内に入ったインディオは、暗くて粉塵の舞う環境のなかで病気にかかる者が続出した。また地上でも、1570年代から銀精製のために水銀アマルガム法が導入され、水銀中毒にかかる者も多かった。1603年の記録によると、ポトシの鉱山労働者は合計1万9000人を数え、その他ここに食料を運搬してくる人びとや鉱山労働者の家族、ポトシ在住の人びとを含めると総計約9万の人口を抱えていた。
「ミタなくしてポトシなし。ポトシなくしてペルーはなし」という言葉が当時流布していたようであるが、それに加えて「ペルーなくしてヨーロッパなし」と言わなければならないだろう。というのは、ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)で産出された銀とともにポトシ銀山で産出された銀は、当時のヨーロッパ経済に重大な影響を与えたからである。すなわち、スペインを通じてヨーロッパ中に銀貨幣が流通することによって、ヨーロッパ経済は活性化したのである。通常こうした状況は「価格革命」として把握されている。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.62>
銀の行方
スペインにはポトシ銀山の銀が大量に持ち込まれたにもかかわらずフェリペ2世の時代、オランダ独立戦争、イギリスとの戦争での無敵艦隊の敗北など、次々と続く戦争での出費がかさみ、宮廷の浪費も続いたため一時的財政破綻をたびたび宣言せざるを得なかった。セビリアからスペイン領アントウェルペン(現在のベルギーのアントワープ)に運ばれた銀は、ヨーロッパで広く流通し、価格革命をもたらした。また、ポトシ銀山の銀はメキシコのアカプルコにもたらされ、ガレオン貿易でフィリピンのマニラを通じて中国にももたらされた。こうしてスペインは世界最大の銀の産地をかかえていながら、その富を国内産業の発展に迎えることなく、海外に流出していった。 → 銀ミタ労働の廃止
ポトシ銀山でのインディオに対する強制労働制度であるミタ労働は18世紀にも続いていた。ミタ労働やその他の課税に対する不満がペルー副王領で高まり、1780年にはトゥパク=アマルの反乱が起こった。インカ帝国最後の皇帝トゥパク=アマルを名乗ったのはティンタ県のカシケ(集落長)コンドルカンキであり、彼は同県がポトシ銀山から遠いこと、人口の減少でミタ労働の割り当てを出せなくなったを訴えたが無視されたため、反乱を起こしたのだった。反乱は全国に広がり、一時はリマとクスコを包囲、陥落寸前まで行ったが鎮圧され、彼は81年5月18日、処刑された。ミタ労働の廃止を訴えて放棄したトゥパク=アマルの反乱は、ラテンアメリカ全体を揺るがす独立運動の先駆けとなった。それでもミタ労働は維持されていたが、1819年、ラテンアメリカの解放者シモン=ボリバルによって廃止され、250年に及ぶ高地ペルーにおけるインディオ強制労働制であるミタ労働は終わった。