カトリーヌ=ド=メディシス
メディチ家からフランスのヴァロワ朝王家に嫁ぎ、アンリ2世の王妃となる。王の死後は摂政として16世紀中ごろのフランスの実権を握った。時はユグノー戦争のさなかであり、彼女はカトリックの立場からプロテスタントを弾圧、1572年のサンバルテルミの虐殺の黒幕とされる。
カトリーヌ=ド=メディシス
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カトリーヌは、背が高く頑丈な身体の持ち主で、美貌ではないが、頭の回転が速い快活で精力的、知的好奇心も旺盛で古典や芸術の教養もあった。
ヴァロワ家とメディチ家の婚姻事情
メディチ家出身の教皇クレメンス7世は、フィレンツェのメディチ家政権を安定させるため、ハプスブルク家のカール5世とフランスのヴァロワ朝の国王フランソワ1世の双方との婚姻を考えた。カール5世の娘マルガレーテと自分の子のアレッサンドロ(フィレンツェ公)とを結婚させる一方、カトリーヌをフランソワ1世の王子のアンリに嫁がせようとした。フランスのフランソワ1世も、カール5世と対抗上、メディチ家と結ぶことを有利と考えた。14歳になっていたカトリーヌは従兄の枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが、クレメンス7世は強引に彼女をフィレンツェに戻し、アンリとの結婚に同意させた。1533年10月、クレメンス7世とフランソワ1世の交渉がまとまり、カトリーヌは10万エキュの持参金つきでフランスの王子オルレアン公アンリと結婚した。フランスの王妃として
カトリーヌは「フィレンツェの商人の娘」と陰口をささやかれながら、義父フランソワ1世をはじめとするフランスの宮廷人に受け入れられ、「とりわけ、周囲の人たちを楽しくする彼女の快活な気質が、人びとの心を魅了」し、音楽や狩り、乗馬を楽しみ、イタリアの料理法で食卓を豊かにした。しかし夫アンリは20歳年上の愛人に入り浸り、結婚生活は不幸であった。それでも25歳から次々と7人の子どもをもうけ、この間、1547年に夫は王位についてアンリ2世となると、王妃としての立場を揺るぎないものにした。王母として30年、フランスを治める
1559年、イタリア戦争を終結させたカトー=カンブレジ条約が締結された年、アンリ2世は馬上槍試合に出場して事故死してしまう。後を継いだ長男のフランソワ2世も1年後に夭折、1560年12月4日、次男シャルルがわずか10歳で即位(シャルル9世)すると、カトリーヌは王母として摂政となり、以後約30年にわたり、フランスを統治することとなる。Episode マキャベリスト「蛇太后」
そのころフランスは、キリスト教の新旧両派に分かれ対立が激しく、動乱の時期であった。カトリーヌは、権力を握るとメディチ家一流の権謀術数を揮い、場合によっては毒殺や呪術を使い、スパイを宮廷に張り巡らして隠然たる勢力を築いていった。彼女の父ウルビーノ公ロレンツォはマキァヴェリが『君主論』を献呈した人物であり、カトリーヌもそれを読んでいたに違いない。このころのカトリーヌは「マダム・セルパン(蛇太后)」とあだ名されるようになっていた。ユグノー戦争
1562年、ヴァシーでカトリック側の中心にあったギーズ公一派が新教徒を虐殺、それをきっかけに宗教対立は全面的な内乱となり、30年の間に8回の戦闘が行われるユグノー戦争となった。カトリーヌは宗教的には熱心なカトリック教徒ではなかったが、政治的にはカトリック派の諸侯と近かったため、新教徒をしばしば弾圧した。サンバルテルミの虐殺
最も有名なものが1572年のサンバルテルミの虐殺である。これは、カトリーヌが新旧両派の融和を図ると称して娘のマルグリット(マルゴ)を新教派の中心人物ナヴァール王アンリ=ド=ブルボン(後のアンリ4世)に嫁がせ、その結婚式に参集したユグノー派新教徒3000人が旧教徒によって殺害された事件であった。カトリーヌが虐殺を指示した証拠はないが、この虐殺をきっかけに全国的なユグノー派弾圧が波及し、2万もの人が殺害されるという事態となってしまった。カルヴァン派はもともと王権を否定するものではなかったが、これをきっかけに、ヴァロワ朝王政に対する非難が強まっていった。ヴァロワ朝の滅亡
1574年にシャルル9世が死去、三男アンリ3世が即位するとカトリーヌは形の上では摂政の地位を退いたが、なおも王母として隠然たる権力を維持した。新旧両派の争いは収まらず、旧教勢力の国王アンリ3世とギーズ公アンリ、新教派のナヴァール王アンリの「三アンリの戦い」が繰り広げられた。フランス宗教戦争が終息する前の1589年1月、カトリーヌはブロワ城で69歳の生涯を閉じた。その年の9月、アンリ3世も暗殺され、後継者がないまま、ヴァロワ朝は断絶した。代わってブルボン家のアンリ4世が即位しブルボン朝となった。しかし旧教徒側は新教徒アンリの即位を認めず、アンリはパリに入城できないまま、争いは続く。
芸術のパトロンとしてのカトリーヌ
カトリーヌはフランスの実質的な女帝として君臨し、宮廷の主催者として建築、美術、文学、演劇、図書コレクションなどあらゆる分野でパトロン活動を展開した。しかし、彼女は若くしてフランスに渡り、フランス化していたので、メディチ家の影響は少ない。また同じ時期のフィレンツェのメディチ家に対しては、当主のコジモ1世を嫌い、正統なメディチ家とは認めていなかった。イタリア人美術家を招いたり、即興劇団コメディア=デル=アルテを招いたことはあったが、彼女の好みはフランス趣味であった。カトリーヌがパトロンとして最も力を注いだのは、建築であった。パリに広大なテュイルリー宮殿(1871年、パリ=コミューンの時に焼失)を建設、フォンテーヌブロー宮の増築などを行っている。<以上、主として森田義之『メディチ家』1999 講談社現代新書 による>