ブルボン朝
16世紀末のアンリ4世に始まり、絶対王政の全盛期ルイ14世時代の繁栄を現出したが、イギリスとの植民地戦争で国力を消耗、アンシャンレジームの行き詰まりからフランス革命が起こるまでの王朝。革命後に一時復活し、1830年の七月革命で王位を追われる。なお、スペインではブルボン朝が現在も継承している。
フランスの王朝としてのブルボン朝はヴァロワ朝にかわり、1589年から1792年のフランス革命までと、1814年から1830年の七月革命までの二度、存在した。フランス絶対王政期に絶大な権力を握り、特にルイ14世時代には広大な海外植民地も獲得し、盛んに征服戦争を展開してフランスの国土を拡張した。しかしそれらの対外戦争は国家財政を疲弊させ、絶対王政が行き詰まってフランス革命の勃発となり、ルイ16世は退位してブルボン朝はいったん終わりを告げ、彼は後に処刑された。ナポレオン没落によって王政復古となり、ルイ18世が国王に復帰してブルボン朝は再興されたが、それも1830年の七月革命で倒された。なお、ルイ14世の孫のフェリペ5世から始まるスペイン=ブルボン朝は、途中の中断をはさみ、1975年にファン=カルロス国王が即位し、現在も王位を継承している。
ブルボン朝の成立
もともとブルボン家は、13世紀のカペー朝ルイ9世(聖王)の孫ルイが初代のブルボン公を名乗り、16世紀まで続いた。いったん途絶えたが傍流のアントワーヌが婚姻によってナヴァル王となってから再興された。その子のアンリが1589年にヴァロワ朝が断絶すると、王位を継承し、アンリ4世としてブルボン朝を創始した。アンリ4世以後、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、と続きルイ16世にまで続くので、ルイ王朝の別名もある。絶対王政全盛期から革命勃発へ
ブルボン朝の国王たち- アンリ4世 1593年にカトリックに改宗し、1598年にナントの王令を発して新教徒の信仰を認め、ユグノー戦争を終結させてた。その後、産業の保護、カナダへの進出など重商主義政策をとり、フランスの主権国家体制(絶対王政/絶対主義)の基盤を築いた。
- ルイ13世 宰相リシュリューが活躍、ヨーロッパのカトリックの中心勢力であったが、三十年戦争ではハプスブルク家との対立関係からドイツのプロテスタント諸侯を支援した。
- ルイ14世 前半では宰相マザランが出て、1648年から始まったフロンドの乱の貴族の反乱を、1653年までに抑えることに成功した。17世紀末から18世紀初頭のルイ14世の親政時代はフランス絶対王政の全盛期を出現させた。それを支えたのは財務長官コルベールの重商主義政策であり、産業の保護、インドやアメリカ大陸への侵出などが進められた。またカトリック体制を強化するために1685年にはナントの王令を廃止したが、その結果、新教徒が国外に脱出し、産業の発展には阻害要因となった。この間、一貫してオーストリア・ハプスブルク家とヨーロッパの主権を争い、スペイン継承戦争など、4度にわたる侵略戦争を展開した。またヴェルサイユ宮殿が造営され、宮中を中心に豪華なバロック芸術が開花した。 → フランス
- ルイ15世 18世紀、先代に続いてヨーロッパの主権国家間の争いに加わり、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い、その間、イギリスとのアメリカ大陸、インドでの激しい英仏植民地戦争を展開した。先代からのヨーロッパでの戦争、イギリスとの植民地戦争は国家財政に大きな負担となり、絶対王政が揺らいでいく。宮中ではバロック様式に代わりロココ様式が流行したが、思想界では啓蒙思想家が活躍を始め、次のフランス革命を準備していく。
ブルボン朝の断絶とその後
18世紀の後半、ルイ16世の時代には絶対王政の矛盾が急速に深刻化し、1789年にフランス革命が起き、1792年には王政も廃止され、ルイ16世が処刑される。ナポレオン没落後、1814年に復古王政となり、ルイ18世が即位、一時ナポレオンの百日天下となるが、1815年にブルボン朝に復帰、次のシャルル10世が1830年の七月革命によって倒され、ブルボン朝は終わりを告げる。なお、次の七月王政のルイ=フィリップは、ブルボン家の分家のオルレアン家の出身であった。また、スペインでは、ルイ14世の子のフェリペ5世がスペイン継承戦争の時にスペイン王となってスペイン=ブルボン朝が始まり、一時中断がありながら、現在までスペイン王室として存続している。