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17世紀の危機

17世紀のヨーロッパで、三十年戦争やピューリタン革命、フロンドの乱など、社会・政治の不安が続いたことをいう。背景には新大陸からの銀の流入の減少、気候不順による経済停滞があったと考えられる。

 16世紀のヨーロッパは、宗教改革が始まる混乱の時代でもあったが、一方で前世紀末以来の大航海時代が展開し、新大陸からの金・銀が大量にもたらされて商工業が発展し、経済上の好況を背景に人口も増加した。しかし、そのようなヨーロッパの繁栄は、1620年代に急速に後退した。

景気の後退

 その背景には、新大陸のの産出が減少に転じて、ヨーロッパへの銀の流入量が低下したことによる経済成長の停滞から下降に加えて、天候不順による凶作などがあり、人口も減少した。そのような状況を「17世紀の危機」ととらえることができる。ヨーロッパ各国を巻き込んだ三十年戦争、イギリスのピューリタン革命、フランスのフロンドの乱、スペインのカタルーニャの反乱、ロシアのステンカ=ラージンの反乱、ヨーロッパ全土に見られた「魔女狩り」などは、この危機の現れと考えられている。
 「17世紀の危機」の時代は、文化史上はバロック美術の時代であり、また科学革命が展開した時代であった。文化史的にはこの時期はルネサンスを経て、中世から近代へと移行する緩やかな転換期であり、次の18世紀の産業革命と市民革命の始まりを準備した時代だったと言える。
※この「17世紀の危機」説は、イギリスの歴史家ボブズボウムが1954年に提唱した。ボブズボウムはヨーロッパ規模の経済危機は社会的・政治的危機でもあったとして「全般的危機」と捉えた。いまだに有力な見方とされているが、その背景にあるとされたアメリカ銀のヨーロッパ流入は減少していなかったという見解もあり、論争は決着していない。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.21>

17世紀の天候不順と飢饉

ロシアの冷害と飢饉 1601年、1602年と冷たい夏が続いた。特に02年の特別な酷寒が収穫を台無しにし、翌年には大飢饉が到来し、おびただしい死者が出た。モスクワだけでも三つの墓地に12万人が葬られ、同時代人は「モスクワ国の3分の1」の人々が死んだと見ていた。人々は猫や犬をつかまえて食べ、草や木の皮も食べ尽くすと、人間の死骸も食べることになった。人々の中には救い主の出現を期待し、おりからの動乱の時代に偽皇帝が出現した。奴隷たちも農民も逃亡し、コザックとなった。<和田春樹『ロシア・ソ連』地域からの世界史11 朝日新聞社 p.65-66>

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