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カール12世

バルト帝国といわれたスウェーデン国王。北方戦争でロシアと戦い、1700年のナルヴァの戦いでは勝ったが、1709年のポルタヴァの戦いでピョートル1世のロシアに敗れた。オスマン帝国に亡命、ロシアとオスマン帝国の戦争を画策した。再起を期して帰国後、ノルウェーへの遠征中に戦死した。その後、北方戦争は1721年に講和、スウェーデンはバルト帝国としての覇権を失った。

カール12世 

カール12世 1706

スウェーデンは17世紀を通じ、カール10世、カール11世と有能な君主が続き、宿敵デンマークとの戦争を有利に進めて領土を拡大、現在のスカンジナビア半島の大部分と、フィンランド、エストニア、ラトヴィアを領有、バルト海沿岸部を制圧して「バルト帝国」と言われるようになった。1697年にカール12世が王位を継承(在位1718年まで)したが、新王はわずか15歳であった。

北方戦争 ナルヴァの勝利

 カール12世が18歳となった1700年、その機に乗じてロシアのピョートル1世バルト海進出をもくろみ、スウェーデンに戦いを挑んだ。これが北方戦争(大北方戦争)である。当初のナルヴァの戦いではスウェーデン軍が勝利した。

Episode 「戦乱の国王」カール12世

 カール12世は、結果的にスウェーデンを破滅に追いやったが、寡黙で性格が激しく、銃撃戦の音を「これぞわが音楽」と言い、その生涯を通じて戦陣から戦陣を生きた信念の人であった。18歳の国王としてナルヴァでロシアの大軍を迎え撃ち、わずか1万の兵力でロシア軍3万5千を粉砕した。戦史では少数の軍が大軍を破った数少ない例とされる。カールの軍は一気にロシア軍を追撃したが、ピョートルは後退策をとり(後のナポレオン戦争と同じ)、カールもモスクワ直撃をせずに迂回したため決定的な勝利には至らなかった。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.61~>

ポルタヴァの敗北

 ナルヴァの勝利の後、カール12世はなおもポーランドにとどまり、各地を転戦した。しかし、長期にわたる遠征で食糧が不足し、しかも1708年冬には厳しい寒波に襲われて、スウェーデン軍は疲弊し、厭戦気分が広がった。カール12世は態勢を立て直したロシア軍との1709年ポルタヴァの戦いの決戦に挑んだが、敗れてオスマン帝国に亡命した。ロシア軍の勝因は、前回の敗北にこりたピョートルが火砲中心の装備に切り替えたことであった。

Episode 天使が天降っても後退せず

 ナルヴァの勝利のあとポーランドを転戦中であったカール12世は、1707年末、再びその鉾先をロシアに向け軍をウクライナに進めた。その地のコサックの頭目マゼッパ(マゼーパ)と結んでロシアを攻略しようとしたが、補給路を断たれたスウェーデン軍は、1708年から翌年にかけての、百年来という寒波に襲われた。この冬の寒さはヴェネツィアの運河も凍ったと言われ、スウェーデン軍の陣営ではウォッカが樽の中で凍り、兵の吐く唾は地面に落ちる前に凍りついた。3000の兵が死に、ほとんどの兵が手足の凍傷に悩んだ。部下は進撃を思い止まらせようとしたが、カール12世は「たとえ天使が天降って余に戻るよう告げたとしても、決して引き返さないであろう」と断言し、1709年、春の洪水期が過ぎるやロシア軍の要塞ポルタヴァを攻撃した。援軍に駆けつけたピョートル1世は「ロシアは亡びるか生き返るかのどちらかである、ロシアが生き返るなら自分の命は問題ではない」と宣言した。
 6月27日の早朝4時、スウェーデン軍は機先を制して攻撃を開始した。戦闘の始まる前にロシア軍の盲射によって足を負傷していたカール12世は、24人の兵のかつぐ輿に乗ったが、この中21人がロシア軍の弾丸に倒れ、王自身も三発の至近弾を浴びた。ロシア軍の新式銃と大砲の威力がいかんなく発揮されたからである。
 戦闘は午前11時にはもう勝敗が決し、3万のスウェーデン軍の中、8000以上が捕虜となり、カールとマゼッパは1000人の部下とともにドニェプル川をわたってオスマン帝国領へ逃れた。<外川継男『ロシアとソ連』講談社学術文庫 p.155-156>

オスマン帝国を動かす

 カールはオスマン帝国のスルタンの保護を受けながら再起を図った。その間、フランスとも提携して、オスマン帝国軍をロシアに向けようとした。オスマン帝国もまた、ロシアの南下を阻止するためスウェーデンと結ぼうとした。こうして、1710年にオスマン帝国がロシアに宣戦、戦争はロシア=トルコ戦争に転化した。この時はポルタヴァの戦いと違い、ピョートルのロシア軍は戦勝を確信してプルート河畔まで敵陣深く侵攻しすぎたため、オスマン帝国軍に包囲されたが、ピョートルは大金をオスマン帝国高官に贈り、講和に持ち込んで危機を脱した。こうしてカール12世の反撃は功を奏しなかった。

Episode 戦乱に生きた王の最後

 5年間トルコに滞在したカールは、1714年冬、意を決してオスマン帝国を離れ、従者一人をつれて騎馬でヨーロッパを縦断、14日間かかってスウェーデンに帰った。再起をかけてノルウェーをデンマークから奪おうとしたカールは1718年、戦況視察中に頭部を打ち抜かれ戦死した。味方から撃たれたのではないかという説が根強かったので、1960年代に遺体を掘り出して調査したところ、前方わずか20mから撃たれたものであることが判明したという。現在ストックホルムのオペラ座裏の公園にあるカール12世の銅像は右手を遠くロシアの空を指している。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.61~>

カール12世の戦死

 満州事変から支那事変にかけて中国に駐在、太平洋戦勃発時にはワシントン日本大使館にいた外交官森島守人が、外交官生活をふり返り、戦後の日本が平和国家として再生できるかどうかを模索した。彼の「一外交官の回想」の続編である『真珠湾・リスボン・東京』で、軍事的な大国でバルト帝国と言われたスウェーデンが、平和国家へと再生するきっかけがカール12世の死をもたらした一発の銃弾だった、と次のように述べている。
(引用)1718年の冬、隣国ノルウェーに対して、兵事をこととしていた折、前線視察中であったカァル十二世が、塹壕から顔を出したとき、こめかみに一弾を受けて即死した。スェーデン駐在のフランス大使は、「この一発でスェーデンは一等国から三等国に落ちた」といったという。ここに流星は墜ち、過去一世紀半にわたって、バルト海をスェーデンの湖として、北欧に雄飛した栄華は一場の夢と化したのである。その後も、国民の間に、過去の繁栄を軍事によって回復しようとの野望もあり、また、ときに干戈をこととしたこともあったが、志を得なかった。スェーデンの現王朝の太祖、カァル・ヨハンが1818年に即位して以来、スェーデンは内外諸政策を百八十度転換して、「外で失ったものを内でとりり戻す」政策に出て今日に至った。・・・<森島守人『真珠湾・リスボン・東京』1950 岩波新書 p.176-177>