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ウクライナ

9世紀にはキエフ公国が繁栄。14世紀にはリトアニアの支配を受ける。18世紀にロシア領となり、ロシア革命で1917年に中央ラーダが成立、18年にウクライナ人民共和国として独立を宣言した。しかしロシアのヴォリシェヴィキ政権・ポーランドの介入などで混乱、22年にウクライナのソヴィエト政権が成立してソ連邦を構成する社会主義共和国となった。1991年、ソ連から分離独立。首都はキエフ。2014年からクリミア半島、ウクライナ東部を巡りロシアとの激しく対立している。2022年2月にロシアの軍事侵攻が始まり、その東部は苦境に立たされている。

ウクライナ GoogleMap

ウクライナはロシア平原の南、ドニェプル川流域から黒海の北岸、クリミア半島を含む広大で豊かな穀倉地帯である。この地には紀元前750年頃、カスピ海北岸からイラン系と思われるスキタイが移り住み、鉄器を使用する遊牧生活を送っていたことが、ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に現れる。やがて東スラヴ人キエフ(キーウ)を建設、次いでノブゴロドからルーシが進出してきて、9世紀にキエフ公国を建設した。
 このキエフ公国の下で、東スラヴ人がロシア人(大ロシア人)、ウクライナ人(小ロシア人)、ベラルーシ人(白ロシア人)に分化したとされている。キエフ公国は13世紀初めにモンゴル帝国の侵入を受けて滅び、ルーシ国家の中心はモスクワに移ることになり、ウクライナの地はしばらく他民族支配が続く。
 その後、14世紀には北方からリトアニア大公国とポーランド王国が対抗しながらウクライナ北部に勢力を伸ばし、両国は同君連合のリトアニア=ポーランド王国となった後、16世紀にはポーランド王国に統合され、ウクライナ北部はその支配を受けた。そのころからコサックによる独立の動きが強まったが、介入したロシア帝国がクリミアを拠点に勢力を伸ばし、18世紀にウクライナ東部を支配するようになってロシア化が強まった。ポーランド分割によってウクライナ西部はオーストリア、東部はロシアの支配という分断状態は確定し、その状態は第一次世界大戦まで続くこととなる。

2.24の衝撃 世界史学習の中でのウクライナ

 ロシア革命でロシアのソヴィエト政権に続いてウクライナにも社会主義ソヴィエト政権が成立、1922年にソ連邦を形成したが、実質的にはソ連の一部に埋没する形となった。この間、ウクライナ人の活動はロシア人と同一視され、ソ連の歴史として語られていく。例えば日本では、1986年のチェルノブイリ原発事故はソ連=ロシアでの出来事のように受け止められたが、実はウクライナでのことだった。ようやくソ連が解体し、1991年にウクライナ共和国が独立国家となっても、多くの日本人にとってはロシアとウクライナの領土的な違い、政治・文化の違いなどははっきりとしていなかったにちがいない。2014年のロシアのクリミア併合も、何か身内の争いとしか写らなかったかった。ところが、2022年2月24日のプーチンのロシアによるウクライナ侵略開始は、その生々しい映像とともに伝えられて衝撃を与え、はからずもロシアとウクライナの違いをはっきりとさせ、ウクライナがまごうこと無き一つの主権国家であることを認識させた。そして、われわれの世界史学習の中ではほとんどロシア史の一部としてしか語られることのなかったウクライナの歴史が、初めて独立した民族と文化を持つ主体であるとして取り上げられることになった。<2022/6/3記>

「国がない」民族の歴史

 2014年のウクライナの政変から始まったロシアのクリミア併合、親西欧派と親ロシア派の内戦、そしてマレーシア航空機の撃墜というショッキングな事件、そしてついに、2022年2月、プーチンのロシアのウクライナ侵略となり、にわかに日本でもウクライナに関する関心が高まった。それまで日本にとってもなじみの少ない国であったためか、その歴史はなかなか判りにくい。その最大の理由が、ウクライナは広大な地域を占めながら時代によってその領域が大きく変動し、さらにロシア、ポーランド=リトアニア、オーストリアなどの近隣の強国に常に脅かされ、その支配を長く受けてきたことによる。その点について、ウクライナ大使を務めた黒川祐次氏の『物語ウクライナの歴史』はわかりやすく説明してくれている。その「まえがき」の一節には次のような文がある。
(引用)ウクライナ史の権威オレスト・ステプルニーは、ウクライナ史の最大のテーマは、「国がなかったこと」だとしている。すなわち、多くの国において歴史の最大のテーマがネーション・ステート(民族国家)の獲得とその発展であるのに比し、ウクライナでは国家の枠組なしで民族がいかに生き残ったかが歴史のメーン・テーマであったというのである。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.iii>
 とはいえウクライナに国家が無かったわけではなく、キエフ=ルーシ公国は10~11世紀にはヨーロッパの大国として君臨し、その後のロシア、ウクライナ、ベラルーシの基礎を形づくった。ウクライナは東スラヴの本家筋だったのだが、モンゴルの侵攻などでキエフが衰退したのに対し、いわば分家筋のモスクワが台頭し、スラヴの中心と、ルーシ(ロシア)の名前をそちらに取られてしまった。そのためキエフの人たちはウクライナという新しい名前を作らなければならなかった。キエフ=ルーシ公国はウクライナ人の国というよりロシア発祥の国と捉えられるようになり、ウクライナの歴史は「国がない」民族の歴史となった。
(引用)「国がない」という大きなハンディキャップをもちながらも、そしてロシアという言語、文化、習慣の近似した大国を隣にもちながらも、ウクライナはそのアイデンティティーを失わなかった。ロシアやその他の外国の支配下にありながらも、ウクライナは独自の言語、文化、習慣を育んでいった。コサック時代のユニークな歴史があり、またロシアに併合された後も、ウクライナはロシア史の中で経済的、文化的に重要な役割を果たしてきた。そしてその間にもウクライナのナショナリズムは高まっていった。
 そしてついに1991年、ソ連の崩壊によってウクライナは独立を果たした。ひとたび独立してみると、人々はヨーロッパにまだこんな大きな国が生まれる余地があったのかとあらためて驚いた。面積は日本の約1.6倍で、ヨーロッパではロシアに次ぐ第二位である。人口は5200万人でロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスに次ぎ、スペインやポーランドをはるかに凌駕している。考えてみれば、ヨーロッパで5000万人規模の国家が成立するのは、19世紀後半のドイツ、イタリアの統一以来の出来事である。<黒川『同上』 p.iv>

ウクライナという国号

 「ウクライナ」の語源は、ソ連時代には「辺境」を意味していると説明され、ロシア支配時代からの「小ロシア」という名称が使われていた。ウクライナ・ナショナリズムの高まった最近では、ウクライナの語幹にあたる“ krai ”という語は、「切る」「分ける」という意味であり、そこから派生したウクライナという語は「地方」や「国」を意味する、という説が強くなっている。「ウクライナ」が特定の地域を示すようになったのは16世紀のことで、それはドニェプル両岸のコサック地帯を指しており、またコサックの指導者も「ウクライナ」を祖国と意識して、宣言や文書に使うようになったことから始まる。<黒川『同上』 p.81-84>

(1)キエフ=ルーシ公国

ノルマン人ルーシの南下

 9世紀末、ノルマン人の一派のヴァイキングがリューリクに率いられてノヴゴロド国を建国した。彼らは自らはルーシと称し、その地の東スラヴ人と同化していった。彼らは次第に南下し、ドニェプル川中流のキエフを占領、キエフ公国(キエフ=ルーシ公国)が成立した。キエフ公国はドニェプルから黒海に進出し、カスピ海北岸のハザール=カガン国を圧迫し、バルカン半島ではブルガール人などと競いながら、領土を広げていった。

キエフ公国のビザンツ化

 キエフ大公ウラディミル1世は、ビザンツ帝国の混乱に乗じてコンスタンティノープルに軍隊を進めて圧力をかけ、988年、ビザンツ皇帝の妹を后に迎えることに成功し、その際にギリシア正教会に改宗した。このことはキエフ公国が文化的にビザンツ化したことを意味しており、その後のロシア国家、スラヴ系国家に大きな影響を与えた。

キエフ公国の滅亡

 キエフはバルト海と黒海を結ぶ商業ルートの中心都市として発達し、毛皮などの交易の中継地として栄えた。しかし、キエフ公国ではもともと兄弟分割相続が行われていたため、キエフ大公以外に多くの公国が分立して争うようになり、12世紀には10~15の公国に分かれてしまった。モスクワ公国もキエフ大公国から分離したウラジミール=スズタリ公国からさらに分離した公国として生まれた。
モンゴル軍の侵攻 そのような分裂状態であったキエフ公国は、モンゴル帝国バトゥの率いる大遠征軍の侵攻を受けると、個々の公国が次々と撃破され、1240年、キエフも占領されて滅亡した。
ハーリチ=ヴォルイニ公国 キエフ公国はモンゴル軍によって滅ぼされ、現在のウクライナの大部分はキプチャク=ハン国の支配を受けることになったが、ウクライナの西部のガリツィア地方にあったキエフ公国の一地方政権であったハーリチ=ヴォルイニ公国は、よくモンゴル軍に抵抗し、その結果、キプチャク=ハン国に朝貢するが国家としては存続した。ウクライナの歴史ではこの国をキエフ=ルーシ公国の後継国家であり、同時にウクライナ人の最初の国家としている。
 しかしこの国は長く存続することができず、1340年代になって、北をポーランド、南をリトアニアに併合され、消滅してしまった。これ以後、この地には、1917年にウクライナが独立するまで、独立国家は存在しなかった。

(2)リトアニア=ポーランド王国その他による支配

モスクワ大公国の成長

 キエフ公国が衰退した後、ウクライナの東北地方ではモスクワ大公国が次第に有力となった。同じようにバトゥの侵攻によってキプチャク=ハン国の支配(タタールのくびき)を受けたが、その支配は間接的であった。そして1480年にモスクワ大公国はキプチャク=ハン国から自立し、1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたていたので、モスクワを「第2のローマ」コンスタンティノープルに次ぐ、「第3のローマ」と称した。モスクワ大公国は国力を増強するにつれて、ウクライナ全土への領有権を主張して、リトアニア=ポーランド王国と抗争するようになった。

クリミア半島の情勢

 またウクライナの東南部、クリミア半島では、キプチャク=ハン国は次第に衰退して1502年に滅亡、その辺境国の一つだったクリム=ハン国の騎馬民族タタールがスラヴ系住民を捕らえて黒海での奴隷貿易を行うようになった。

リトアニアの南下

 14世紀には北方のリトアニア大公国が急速に勢力を拡大してきた。リトアニア人はドイツ騎士団と闘いながら武力を強化し、スラヴ人居住地に進出、ベラルーシやかつてのキエフ公国の領土、つまり現在のウクライナの北部を支配下に収め、1362年にはキプチャク=ハン国を初めて破り、この地をいわゆる“タタールのくびき”から解放した。

リトアニア=ポーランド王国

 14世にはポーランドも西方からウクライナの地に進出してきた。ポーランドは西側からの神聖ローマ帝国とドイツ騎士団の圧力を受けており、出口を東方に求め、カジミェシュ3世の時、ウクライナ西部のハーリチ=ヴォルイニ公国に干渉し、同じくその地に干渉してきたリトアニアとも争い、リヴィウを中心とするガリツィア地方をその支配下に収めた。1386年、カジミェシュ3世が亡くなると継承者がいなかったため、リトアニア大公のヤゲウォをポーランド国王として迎え、リトアニア=ポーランド王国となった。

ポーランドによる支配

 同君連合であったリトアニアとポーランドの連合王国は、1569年に合併したが、その実態はポーランド王国によるリトアニア併合であった。その結果、キエフを含むウクライナのほぼ全域もポーランドの支配下に入った。ポーランドは国王は有力な貴族(シュラフタ)によって選ばれる選挙王制が行われており、貴族の力が強かったが、ポーランド支配下のウクライナでもポーランド人貴族が土地を支配し、ウクライナ人は農奴化されていった。貴族の支配と農奴制社会化がこの時代の特色であった。

コサックの登場

 コサックとは15世紀頃から、ロシアからウクライナにかけての草原(ステップ)に定住したスラヴ人の農民たちが、東方から侵入するトルコ系遊牧民タタール人と戦いながら次第に騎馬技術に長ずるようになり、やがてタタールと同じように略奪を行う自治的な武装集団となっった人々を言う。それらの中で、ウクライナのドニエプル川中流の中州にザポロージェ・シーチ(ザポローシュとは「早瀬の向こう」、シーチとは「要塞」を意味する)を建設し、そこを中心として勢力を強めた人々を、ザポロージェ=コサックと言うようになった。
 ザポロージェ=コサックははじめはポーランド王に従属し、その軍事力としてモスクワ公国との戦いに従軍して勇名を馳せるようになったが、キリスト教の先兵としてタタール人のクリミア=ハン国やオスマン帝国のイスラーム教徒と戦い、次第に独立した政治勢力となっていった。ポーランド王は次第にコサックの統制に手を焼くようになり、1572年には登録制度を導入して統制しようとした。

参考 コサックの議会

(引用)ザポロージェ=コサックの政治は平等の原則によって行われていた。軍事行動(戦争や略奪のための遠征)や外国との同盟などの重要事項は「ラーダ」と呼ばれる全体会議で決められた(なおラーダは現独立ウクライナの議会の名でもある)。コサックたちは毛皮の帽子を挙げたり、投げ捨てたり、そして大声を出して同意や反対の意思表示をした。コサックの頭領であるヘトマンは、初期にはポーランド王によって任命されたが、後にはラーダ出席の全員によって選ばれた。いったん選ばれるとヘトマンは、とくに軍事面では独裁的な権限を行使した。同僚を死刑にする権限ももった。もっとも、戦いで敗れた後、指揮において誤りがあったとしてヘトマンが死刑に処せされることもあった。<黒川『同上』 p.92>

ボグダン=フメリニツキーの独立運動

 ザポロージェ=コサックのアタマン(ヘトマン)、ボグダン=フメリニツキーは、1648年、にリトアニア=ポーランド王国に対する反乱を開始した。それはウクライナ各地に広がり、独立運動となった。フメリニツキーは一時はワルシャワ近くまで進撃したが、引き返してキエフに入城し、コサックのアタマンをいただくアタマン国家を作り上げた。それは、ギリシア正教のローマ=カトリック(及びその手先となっていたイエズス会)に対する勝利として捉えられ、フメリニツキーはキエフ府主教から「ポーランドへの隷属からルーシを解放した者」、「第二のモーゼ」と讃えられた。

コサックのアタマン国家

 フメリニツキーはポーランドと戦う上でクリム=ハン国のタタールと同盟したが、1651年にはタタールが離反したため戦いに敗北した。そこでフメリニツキーはモスクワのロマノフ朝に支援を要請、第2代目の国王アレクセイはウクライナのコサックを保護下に置くことを決め、1654年に彼らと臣従協定を結んだ(ペレヤスラフ協定)。フメリニツキーは失意のうちに1657年に死去した。
 フメリニツキーのアタマン国家の範囲はキエフを中心とした数州に限られ、現在のウクライナの面積には及ばないが、最初の実質的なウクライナの独立国家ということができる。しかし、その存在は長くはなく、ロシアはさらにウクライナを巡ってポーランドと戦い、1709年1667年に休戦条約を結んでウクライナの東部の大半をロシアの領土とした。

ウクライナ(3) ロシアによる支配

ウクライナ東部のロシアへの編入

 ウクライナのコサック、ボグダン=フメリニツキーの反乱から始まったロシアとポーランドの戦争は、1667年に講和となったが、その結果、ドニエプル川左岸、つまりウクライナの東半分と、右岸にあるキエフはロシア領となった。キエフはロシア国家の発祥の地であったので、ロシアはその故地を回復したことになるが、それだけに留まらず、先進的な文化を有し西側に開かれた都市を獲得したことはロシアの発展にとっては重要な意味があった。

ロシアの南下政策

 16世紀~17世紀、ロシア帝国は盛んに南下政策を進めた。そのころ、クリミア半島クリム=ハン国はオスマン帝国に服属していたが、ピョートル大帝は1696年にアゾフ海に進出した。

アタマン・マゼッパとピョートル大帝

 ザポロージェ=コサックのアタマン(頭領)マゼッパはロシアのピョートル大帝の南下政策に協力して戦ったが、その犠牲となって多くのコサックが命を落とした。マゼッパはその代償として自治権を求めたが、中央集権化を進めるピョートルはそれを認めなかった。そのため、1700年に北方戦争が始まると、マゼッパは途中からスウェーデンのカール12世側に転じ、ピョートルと敵対することとなった。1709年、ウクライナの中部のポルタヴァでカール12世とマゼッパの率いるコサックの連合軍とピョートル大帝の率いるロシア軍が激突した。ロシア軍には他のコサックが加わっていた。戦いはロシア軍の勝利となり、マゼッパは約4千のコサックと共にオスマン帝国に亡命、その地で亡くなった。

Episode ウクライナの英雄第1号と第2号

 現代のウクライナでは、ポーランドからの独立を戦ったボグダン=フメリニツキーは民族の英雄第1号、ロシア軍と戦ったイヴァン=マゼッパはその第2号として人気が高い。二人ともコサックの出身で、草原の国ウクライナの大地を駆け巡ったヒーローというイメージが強い。とくにマゼッパは西欧にも知られ、その劇的な生涯はバイロンやヴィクトル=ユゴーが詩にしている。ハンガリー生まれのフランツ=リストも超絶技巧練習曲の一つに『マゼッパ』(交響詩も書いている)という作品がある。その激しい曲想はリストの民族主義の心情をマゼッパのロシアとの戦いに託して描いているのではないだろうか。もっともロシアの大家チャイコフスキーの歌劇『マゼッパ』では、悪辣な手段でピョートル大帝に刃向かい、若い娘を籠絡して悲劇に落ちる老将軍として描かれている。

ウクライナから小ロシアへ

 1774年、エカチェリーナ2世キュチュク=カイナルジ条約をオスマン帝国との間で締結し、クリム=ハン国の独立を認めさせ、黒海沿岸地帯を獲得した。これによってオスマン帝国・クリム=ハン国との戦争が一応の決着がついたので、コサックは必要でなくなった。そこでエカチェリーナはザポロージェ=コサックを廃止、ロシア軍に編入した。その一部はクバン地方に移住し、クバン地方のウクライナ人の先祖となった。エカチェリーナはオスマン帝国の干渉を排除した上で、1783年に軍隊を派遣してクリム=ハン国を滅ぼした。その一方でウクライナにロシア本土と同じくキエフなどの三県を置き、ロシア帝国の一部とし、コサックのアタマン国家は消滅、ウクライナは「小ロシア」と称されるようになった。

ポーランド分割

 その後、ウクライナ西半分はポーランド領として残っていたが、次第に国力を衰退させたポーランドに対し、18世紀末にはロシア・プロイセン・オーストリア三国によるポーランド分割が行われ、1793年の第2回でドニエプル左岸の大部分、1795年の第3回で残りのウクライナがロシア領に編入された。もっとも、ロシアにとっては、歴史的にはこの地はロシア国家の領土だったと主張し、それを奪回したとの意識が強かった。事実、後にポーランドが復活してもこの地はポーランドに戻ることはなかった。

ロシアとオーストリアによる支配

 ポーランド分割によりウクライナの西部のガリツィア地方はオーストリア領となり、ハプスブルク家の支配下に入った。この結果、18世紀末にウクライナの地は約8割がロシア帝国領(この地域が小ロシアと呼ばれた)とされ、残りの2割はオーストリア帝国に支配されることとなり、その状態は第一次世界大戦終結までの約120年間続くことになる。
 この間、東のロシア支配地域と西のオーストリア支配地域に分断されたことにより、文化的にも異なる性格を強めたため、民族意識も分化していったが、19世紀後半のウィーン体制を崩壊させたナショナリズム自由主義の高揚はウクライナにも影響を及ぼし、次第にウクライナ人としての民族的自覚、民族の独立と統一を求める動きが生まれていった。

ウクライナ(4) 独立とソ連編入

独立と苦難

 第一次世界大戦の末期、1917年に第2次ロシア革命が勃発、まず二月革命でロシア帝国が滅亡した。それによってウクライナには独立の機会が訪れたが、同時にロシア革命の激しい波を被ることとなり、その独立からソ連に編入されるまでには、短期間ながら複雑な経緯があった。<以下、<『新版世界各国史20』1998 山川出版社/黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 などによって構成>
ウクライナ中央ラーダ 二月革命が起きると、ウクライナではただちに諸勢力の代表がキエフに集まり、3月4日(旧暦)「ウクライナ中央ラーダ」を結成した。ラーダはウクライナ語で会議を意味し、ロシア語のソヴィエトに相当する。中央ラーダはロシアの枠内での自治の確立で一致したが、民族主義的要求が強く、ボリシェヴィキは少数だった。
ウクライナ人民共和国 ロシア革命政権である臨時政府は中央ラーダの自治要求を認めず、対立関係となった。1917年11月、十月革命ボリシェヴィキ独裁政権が成立すると、ウクライナの中央ラーダは暴力的な権力奪取を認めず、1918年1月9日に「ウクライナ人民共和国」(国民共和国とも表記)の発足を宣言した。ロシアのボリシェヴィキ政権はその動きを民族主義的なものとして否定し、赤軍を派遣してキエフを占領した。このボリシェヴィキ軍とウクライナ民族主義者の戦いは、断続的に1921年末まで続く。
独自にブレスト=リトフスク条約を締結 ロシアのボリシェヴィキ政権は革命政権を守るためにドイツとの講和を急ぎ、1918年3月にブレスト=リトフスク条約を締結、停戦とともにロシアから継承した西方の広大な領土を放棄した。この協議が行われている間、ウクライナ人民共和国はキエフ西方のジミートルに逃れていたが、ロシアのボリシェヴィキ政権をウクライナ代表とは認めない立場から独自に代表を送り、1918年2月にドイツ・オーストリア側との間で、ロシアとは別個の講和条約としてブレスト=リトフスク条約を締結した。講和の内容は、ドイツはウクライナ政府を支援してボリシェヴィキと戦い、その見返りとしてウクライナは食糧100万トンを供給するというものであった。この条約に基づいてドイツ軍はウクライナ政府軍とともにキエフを攻撃、ボリシェヴィキ軍は全面対決を避けてキエフを撤退した。
ウクライナの内戦 しかしドイツは4月、実力で中央ラーダを解散させ、コサックの頭領(ヘトマン)の子孫スコロパツキー将軍を傀儡として政権を握り、国名も「ウクライナ国」と改めた。このヘトマン政府と言われたドイツ傀儡政権に対してはウクライナ人の不服従の戦いが続いた。1918年11月にドイツ軍は敗北して撤退、ウクライナはソヴィエト軍、マフノらに率いられた農民軍、民族派のデレクトーリア軍、デニキンの白軍などが入り乱れて複雑な内戦となった。1919年春までに赤軍の勝利が確定して、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が設立された。
ソヴィエト=ポーランド戦争 しかし、1920年4月、ピウスツキに指導されポーランドがソヴィエト=ロシアとの戦いに踏みきり、ソヴィエト=ポーランド戦争が始まった。ピウスツキは大ポーランドの復興をめざし、敵をキエフを拠点とするボリシェヴィキ(ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国)に定めてていたので、民族派のペトリューラなどのウクライナ人もポーランド軍に協力して、ウクライナに侵攻し、5月にはキエフを占領した。ソヴィエトの赤軍は反撃してキエフを奪還、さらにポーランド軍を追ってワルシャワに迫ったが、8月のヴィスワ川の戦闘で赤軍がピウスツキ指揮のポーランド軍に大敗した。1921年3月に締結された講和条約(リガ条約)で西ウクライナと白ロシアの一部はポーランド領に編入された。

ウクライナ独立の苦悩

 1917年、ウクライナ中央ラーダは独立を宣言したが、結局、東ウクライナにソヴィエト=ロシアに従属的な国家が生まれたまでで終わり、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、バルト諸国などのような確固たる独立を達成することはできなかった。その要因は、国内的には国民の中核となる市民層の成長が不十分であったこと、国外的にはロシアのボリシェヴィキ政権がウクライナの民族主義を受容しなかったことなどが考えられるが、長期的に見ればこの時の独立のための戦いは、長く経験として記憶され、ソ連崩壊後の独立に繋がったと見ることができる。
(引用)しかしこの独立は無意味だったのではない。確かに短期間に終わったが、ウクライナは紛れもなく独立していた。そしてその記憶はソ連時代にも連綿として生き続け、第二次世界大戦のときにも幾多の独立運動に結びつき、ついにはソ連の崩壊時に本格的な独立となって実を結んだ。その意味でかつて独立国家であったという思いは、現代のウクライナ人にとって大きな誇りと支えになっている。現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも1918年中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、ヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」(1865年)、ヴォロディーミル聖公の「三叉の鉾」であることからも、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識しているのである。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.200>

ソ連邦を構成する

 こうして東ウクライナはウクライナ=ソヴィエト共和国に属することになったが、残りはポーランド、ルーマニア、チェコスロヴァキアに編入された。1922年12月にロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソヴィエト社会主義共和国連邦を形成した。形式的にはウクライナは独立国であるが、ソ連邦を構成する一部分でもあるという二重の存在となった。
ロシア化の進行 ソ連邦では、当初はレーニンの主張により、その内包する多くの民族の自主性が尊重され、それぞれの言語や習慣は積極的に保護されていた。ウクライナでも当初はウクライナ語の使用が奨励され、ウクライナの独自の文化も尊重されていたが、レーニンの死去の後、トロツキー(ウクライナ生まれのユダヤ人だった)が追放され、スターリンが権力を握ると中央集権化と共に民族文化の抑圧に転じ、ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法はロシア語に近づけられ、新聞雑誌でもウクライナ語が減少、20年代に見られたウクライナ文化は30年代には全く姿を消してしまった。
集団化と大飢饉 1930~31年、ウクライナでも農業集団化が強行され、農民はコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)に組織されていった。一方ウクライナのオデッサなどでは工業化が進められ、労働力として農民の都市移住が強制された。1935年までに91.3%が集団化されたが、その結果、天候不順もあって穀物生産量は激減し深刻な飢饉に襲われることとなった。正確な統計はないが、ウクライナではこの大飢饉で350万人が命を落としたとされている。
大飢饉(ホロドモール) 旧ソ連時代のウクライナで、1932~33年に起きた大飢饉は「ホロドモール」といわれている。ウクライナでは当時の独裁者スターリンによる虐殺と捉えている人が多い。それはスターリンの指示で「飢餓輸出」が行われ、当時のウクライナから食糧が消えてしまったからだ。ホロドモールによる死者は、400万とも1000万人とも言われているという。2018年11月24日にはキエフでポロシェンコ大統領も参加して犠牲者追悼の集会が開かれた。その背景には東部での親ロシア派との内戦が続いているウクライナ国民の反ロシア感情がある。ロシアのラブロフ外相はウクライナ人以外も犠牲になった「共通の悲劇だ」と反論している。<2018年11月27日 AFP時事> → Amazon Prome Video 『赤い闇』

第二次世界大戦とウクライナ

ドイツ軍の侵攻と強制移住 1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、独ソ戦が開始されると、バルバロッサ作戦の下、ドイツ軍が破竹の進撃を続け、11月にはウクライナ全土はドイツ軍の手に落ちた。枢軸国に加わったルーマニアは南西部からウクライナに侵攻し、オデッサを占領した。スターリンはドイツ軍の進撃をくい止めるため、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの工場地帯の住民約380万人(1000万人との説もある)と850の工場設備をウラル山脈を越えた遠隔地に強制的に移住させた。
 なお、クリミア半島は大戦中、二年半にわたってドイツ軍に占領されたが、戦後奪還したスターリンはクリミア=タタール人に対独協力の嫌疑をかけ、約19万人を中央アジアに強制移住させた。
ドイツ軍の占領 ウクライナを占領したドイツ軍はその地を穀物供給地として重視しただけでなく、人的資源をかり集め、オストアルバイター(東方労働者)と称してドイツ本土に移送し、強制的な労働に従事させた。またユダヤ人絶滅政策による過酷な摘発を行い、85~90万が強制収容所に連行された。1943年1月のスターリングラードの戦いで形勢が逆転、ドイツ軍の後退が始まり、ソ連軍がウクライナに進撃し、同年9月までに全ウクライナを占領した。
 ウクライナ人の中にナチス=ドイツに協力してソ連からの独立を実現しようとした者もいた。ウクライナ民族主義者のステパン=バンデラは、ウクライナ人部隊を組織してドイツ軍のソ連侵攻に参加した。バンデラはリヴィウで独立宣言を発したがドイツはそれを認めず、バンデラらはゲシュタポに逮捕、拘禁されてしまった。
戦争の犠牲者 ウクライナは第二次世界大戦の独ソ戦で最前線となったため、厖大な人的損害を被った。ある資料によると、ソ連全体で独ソ戦の犠牲者は軍人と民間人合わせて2000万~3000万であるが、ウクライナはそのうち約1040万(軍人約280万、民間人約510万、間接的損失約240万)であり、ウクライナの損害が占める割合がきわめて高かった。<『ウクライナを知るための65章』2022 明石書店 p.170>
ヤルタ会談 1945年2月に開催された連合国の戦後処理構想に関するイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領F=ローズベルト、ソ連首相スターリンがクリミア半島のヤルタで開催された。その時、ソ連の西部国境についても話し合われ、ポーランド領の東ハリチナー(ガリツィア)・西ヴォルイニ・ポリッシャ地方がソ連に割譲された。さらにソ連はルーマニアから北ブコヴィナ地方、チェコスロヴァキアからザカルパッチャ地方を獲得、これらをウクライナ・ソヴィエト共和国に編入した。これらはウクライナ共和国に引き継がれており、現在のウクライナ西側国境が確定したと言える。
国連に一議席をもつ 第二次世界大戦中の1945年4月のサンフランシスコ会議で可決された国際連合には、ウクライナとベラルーシはソ連と共に加盟し、原加盟国としてそれぞれ一票を与えられている。これは、大戦末期のクリミア半島のヤルタで開催されたヤルタ会談で、ソ連のスターリンが主張し、チャーチルが認めたことによって実現した。 → 国際連合の加盟国を参照

ウクライナ(5) ソ連から分離独立

第二次世界大戦後、ソ連邦の一員として、社会主義体制が続いたが、1991年、ソ連邦の解体に伴い、ウクライナとして独立、独立国家共同体(CIS)に加盟した。 しかし、親ロシア派と親西欧派の対立が続き、現在も不安定な状況にある。

クリミア半島ウクライナに編入

 1954年、ソ連のフルシチョフ第一書記は、コサックの頭領フメリニツキーがロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ協定の締結300周年記念の際に、それまでロシアの一部であったクリミア半島を、「ロシアのウクライナの兄弟愛と信頼」に基づき、ウクライナ共和国に移管した。これはウクライナを懐柔することと同時に、ロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたものであった。フルシチョフの頭の中には、将来ウクライナが独立するなど考えも及ばなかったのであろう。「後に(ソ連解体によってウクライナが独立し)、ロシア人はあれほど愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのである。」<黒川『同上』 p.240>

ソ連の停滞とウクライナ

ロシア人の移住 1970年代のブレジネフ時代にはソ連の停滞がウクライナにも及び、穀物生産量、工業生産量がともに減少し、経済成長率の低下が続いた。それでもソ連の他地域よりも恵まれていたため、ウクライナへのロシア人の移住が相次ぎ、1926年には300万だったのが、1979年には1000万人となり、ウクライナ総人口の20%を越える状態となった。
ヘルシンキ宣言の影響 冷戦の続く中、デタント(緊張緩和)の動きが強まり、1975年7月にヘルシンキで全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催された。ブレジネフはその成果として出されたヘルシンキ宣言に署名したが、そこには国境尊重の安全保障に加え、各国が人権尊重を約束する条項が含まれていた。ソ連に人権を抑圧されていたウクライナを含む東欧諸国の人々は、このヘルシンキ宣言を拠り所に、人権の回復を訴え、ソ連および共産党による政権独占、言論弾圧などに抗議するようになり、いわゆる「反体制運動」が始まった。ウクライナにおいても反体制活動が活発になったが、ブレジネフ政権はヘルシンキ宣言に違反してそれらの言論の弾圧を続けた。

ペレストロイカとウクライナ

 1985年、ソ連に登場したゴルバチョフ政権グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げ、ソ連の停滞を打破し、社会主義体制の再建を目指した。しかし、情報公開の広がりは、過去のソ連時代の大飢饉や人権抑圧を明るみに出すことになり、ウクライナにおいてもソ連社会主義の硬直した抑圧体制に対する批判が強まっていった。

チェルノブイリ原発事故

 そのような中、1986年4月26日、ウクライナ西部にあったチェルノブイリ原子力発電所が人為的なミスで爆発するという大事故が起こった。事故は3日間隠蔽され、被害を全ヨーロッパに広がる結果となり、ソ連の体制の構造的欠陥が明らかになった。原発事故だけではなく、急速な工業化が進んだ東ウクライナは、深刻な汚染問題が起きていた。

ソ連からの分離独立

 ソ連邦の動揺が続く中、1989年に一連の東欧革命が起こり、東欧諸国の社会主義体制が急激に倒れた。ウクライナでも同年9月、長く権力を維持していたウクライナ共産党第一書記のシチェルビツキーが解任され、変化が加速された。ウクライナの民主勢力は「ルーフ」(運動の意味)を結成し、1990年1月にはリヴィウからキエフまでの30万人の「人間の鎖」をつないだ。同年3月の最高議会選挙では、初めて共産党以外の政党が立候補し、民主化勢力も議席を獲得、共産党の権威は急速に失墜した。
 1990年6月、ロシア連邦がソ連から独立して主権宣言を行うと、続いてウクライナ最高会議が7月16日にウクライナ共和国の主権宣言を行った。ソ連のゴルバチョフ大統領は連邦制維持の働きかけを続けたが、1991年8月に保守派クーデタが起こって権力を失墜し、クーデタを収束させたロシア大統領エリツィンが主導権を握ることとなった。

独立ウクライナの成立

 1991年8月24日、最高議会はほぼ全会一致で独立宣言、国名を「ウクライナ」と変更し、さらに12月1日に独立に関する国民投票の結果、投票参加者の90%以上の圧倒的多数の支持で独立を達成した。ロシア系住民がどのような判断をするか注目されたが、ほぼ80%が独立に賛成した。ただし、最もロシア系の多いクリミアでは54%で過半数をようやく上回った。新生ウクライナ大統領には共産党第二書記であったが改革派に転じたクラフチュークが選出された。
CISの結成 ウクライナ独立宣言でソ連の解体が決定的となった。12月にはロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチューク、ベラルーシのシュシケヴィッチの三首脳が会談、ソ連邦の解散と「独立国家共同体(CIS)」の結成を宣言した。(ウクライナは、ロシアがクリミアに侵攻したため、2014年に脱退。)

ウクライナ(6) オレンジ革命とクリミア危機

2004年、ウクライナの大統領選挙で親ロシア政権が敗れ、親西欧派政権が成立した(オレンジ革命)。しかしその後、親ロシア派政権が生まれ、2014年、さらに親ロシア派政権の腐敗に対する批判が強まり、大統領が追放された。それに反発した親ロシア派が、クリミアのロシア編入を住民投票で強行、ウクライナ東部も同調し、深刻な内戦となっている。

ウクライナ国旗  独立を達成したウクライナは、面積は60万3,700平方kmに及び、日本の約1.6倍、ヨーロッパではロシアに次いで広い。首都はキエフ(キーウ)。ウクライナの国旗(右)は上半分の青が青空、下半分の黄色は小麦畑を表すとされている。
クリミア帰属問題 1991年、ソ連邦解体と共にウクライナは独立を達成したが、クリミア半島やウクライナ東部には多くのロシア人を抱え込むこととなった。ウクライナは穀倉地帯であり、工業力も高く、何よりも旧ソ連の核装備したミサイル基地が置かれていた。
 ウクライナは黒海に面し、EUに隣接しているという点でロシアにとって非常に重要な位置に存在している。ロシアはウクライナ独立後も関係を重視して、テコ入れを続けた。ウクライナ人の多い東部は、早くから西ヨーロッパ諸国とのつながりを意識し、ロシアの影響力から脱してEUとNATOへの加盟を目指したが、ロシア系住民の多い東部、特にクリミア半島はロシアとの一体感が強く残っており、両者の駆け引きが独立後のウクライナの最大の問題となっていく。
ブダペスト覚書 またウクライナにはソ連が管理していた核弾頭が訳千発残されており、その管理をめぐってロシアとウクライナ間に問題があった。全欧安全保障協力会議(CSCE)はその解決の仲介に立ち、1994年12月でブダペストにおいて会議を開催し、会議を常設的な全欧安全保障協力機構に改組することで合意、さらにアメリカ・イギリス・ロシア三国はブダペスト覚書に調印、ウクライナ・ベラルーシ・カザフスタン三国が核拡散防止条約に加盟して核兵器を放棄することを前提に、三国の安全を保障することを約束した。ウクライナなどもどれに同意して、核兵器を、正式にロシアに移管させた。ウクライナは核を放棄したことで安全保障を約束された形となったが、この核兵器はもともとソ連が管轄していたものであった。
親ロシア派の台頭 アメリカにとっても、もしウクライナが核兵器を引き継ぐことになれば、核拡散にとなるので避けなければならず、ウクライナに対して経済援助を約束して、その放棄を了解させた。このブダペスト覚書によって核兵器は五大国のみが占有するという「核不拡散(NPT)体制」が維持されることとなった。ウクライナにとってはロシアに核兵器を委譲する代わりに、クリミア半島の領有を守ったという側面と、ブダペスト覚書で安全が保障されという側面があり、真の独立国家として歩み始めたと言える。しかし、ロシアとの関係はその後、2000年代に入り、プーチン大統領が領土拡張欲をあからさまにしたことで、緊張を増すこととなる。プーチン政権は盛んにクリミア半島とウクライナ東部のロシア系住民のウクライナからの分離運動を背後から支援する動きを強めていった。その力もあり、2003年に親ロシアのヤヌコーヴィチ首相が生まれ、ロシアをバックにした強権的な政治のもとで不正が横行するなど、民衆の不満が高まっていった。、

オレンジ革命

 2004年11月に行われた大統領選挙をめぐり、民主化が実現した改革をオレンジ革命と言う。この年の大統領選挙では、東部を基盤にした親ロシア派の与党ヤヌコーヴィチと、西部を基盤としてEUとの接近をはかることを掲げた野党ユシチェンコの選挙戦となった。11月21日に行われた選挙の結果、ヤヌコーヴィチが勝利したが、野党は大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、広範囲なデモや集会を繰り返した。ヤヌコーヴィチとロシアは反発したが、結局抗議行動に押され再選挙が行われた結果、12月26日の開票でユシチェンコが勝ち、大統領に就任した。このとき野党側はシンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いて気勢を上げ、その様子はTVを通じて世界中に知られ、民衆が選挙の不正を覆して大統領を選び直すという民主化を実現した「オレンジ革命」と言われた。
 しかし、オレンジ革命後もウクライナ政情は安定せず、親ロシア派、反ロシア=親西欧派の対立が続く中、共産党から推されたヤヌコーヴィチが復活、2006年に首相となり、2010年の大統領選挙で再び立候補して当選した(この時も対立候補ユリヤ=ティモシェンコはヤヌコーヴィチ陣営の選挙不正を主張したが、このときは覆らなかった)。

ユーロマイダン革命とロシアのクリミア併合

ユーロマイダン革命 ウクライナ国内では親西欧派はEUおよびNATOへの加盟を主張し、親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権およびその背後のロシアがそれを強く弾圧するという図式の対立が続いた。2013年にはウクライナはEUとの政治・貿易協定締結の予定であったが、親露派のヤヌコーヴィチ大統領は調印を拒否、親西欧派の反発が強まった。反発は政権の汚職や金権体質にも向けられ、2014年2月には「ウクライナ騒乱」ともいわれる大規模な反政府暴動に発展した。キエフでは独立広場でデモ隊と警察部隊が衝突、双方に犠牲者が出た。議会が混乱の責任は大統領にあるとその解任を決議したためヤヌコーヴィチ大統領はキエフを脱出してロシアに亡命し、2014年2月22日、政権は崩壊した。この政権交代をもたらした民衆の蜂起はウクライナでは「ユーロマイダン革命」または「マイダン革命」といわれている。ユーロは欧州、マイダンは広場の意味。現在のウクライナではオレンジ革命に続く民主化のためのステップとされているが、ヤヌコーヴィッチ及びロシアは民族主義者、右翼が起こした暴力的なクーデタと主張して政権交代を認めていない。
ロシアのクリミア併合 これを受けてロシアのプーチン大統領は2014年3月、クリミア半島の住民がロシア編入を希望しているとしてその保護を理由に軍を派遣、その支援のもとで住民投票をおこない、それによって圧倒的多数の賛成を得たとしてクリミアの併合を強行した。
 このクリミア併合の背景にはプーチン政権の「強いロシア」を志向する膨張主義によって国民的支持を得るという意図があった。とくにクリミア半島はエカチェリーナ2世時代以来のロシア領という歴史的経緯からも、また軍港セヴァストーポリクリミア戦争以来のロシア艦隊の要地で黒海から地中海方面への進出に欠かせないところであった。またロシア系住民も多いことも事実である。
ウクライナ東部の分離運動 さらに2014年4月にはウクライナの東部のロシア系住民の多いルガンスクとドネツク州の1部がウクライナからの分離を表明、ウクライナ政府はそれを認めず、激しい内戦に突入した。ウクライナ政府は、東部諸州の分離勢力は直接的にロシアの軍事支援を受けているとして強く非難した。ウクライナ東部はロシア系住民も多く、ロシア語が通用している地域であり、プーチンはその二州のウクライナからの分離独立を認めさせて、衛星国家化を狙ったものと思われる。
 2014年夏には、ウクライナの親ロシア派支配地区上空を航行中のマレーシア航空機がミサイルで撃墜されるという悲劇が起こっている。
ロシア、G8から除外される NATOは対ロシアの戦争をも辞さない構えを強め、ウクライナは未加盟なので、ポーランドなど近隣の加盟諸国の軍備を増強したため、緊張がたかまった。このような全ヨーロッパの安全保障の危機に直面し、ロシア、ウクライナ双方が加盟するOSCE(全欧安全保障協力機構)による調停への期待が高まった。国際社会はロシアに対して批判的で、先進国首脳会議(サミット)はロシアの参加を拒否、G8から除外された。またウクライナは旧ソ連構成国の合議体である独立国家共同体(CIS)から離脱した。
ミンスク合意とその崩壊 2014年9月、ベラルーシのミンスクで、全欧安全保障協力機構(OSCE)・ドイツ・フランスの仲介によって、ロシアのプーチン、ウクライナのポロシェンコ両大統領も合意して停戦合意が成立した。合意では停戦の約束とともにウクライナから分離を宣言した地域に対しては特別の待遇(高度な自治)を認めるというものであった。しかし、ウクライナ東部では、依然としてロシア系住民と、ウクライナ人の民族主義グループの衝突が続き、双方の政府も停戦を厳守する実効力にかけるため、事実上、戦争状態(ドンバス戦争とも言う)が続いた。
クリミア紛争の黒海への波及 2018年11月25日には黒海でロシア艦がウクライナ艦を砲撃、さらに3隻を拿捕するという事件が起き、海上でも緊張が高まった。ロシアは2014年に併合したクリミア半島とロシア本土の間のケルチ海峡に巨大な橋を建設、ケルチ海峡で黒海とアゾフ海の船の出入りをコントロールしている。ロシア連邦保安庁はウクライナ海軍の小型装甲船2隻などが領海に侵入したので砲撃、拿捕したと発表、ウクライナ海軍側は公海上で砲撃されたと主張している。この問題で国連安保理が緊急会合を開いたが、黒海での両国の衝突も目が離せない。<2018年11月27日 ロイター>

ウクライナ東部紛争の長期化

 2014年春に始まったウクライナ東部紛争は、親ロシア派武装組織が実効支配するウクライナ東部ルガンスク州・ドネツク州に対し、ウクライナ政府軍がその奪還を図るという構図で戦いが行われた。「ウクライナ内戦」という言い方は、自らは関係していないというロシアの言い分であり、親ロシア派はウクライナ東部のロシアへの併合を主張しており、ロシアもそれを軍事的・経済的に支援しているのは明白なので、事実上はロシアとウクライナの戦争ということができる(国際法上の戦争には至っていないが)。そこでここでは、国際社会で言われている「ウクライナ東部紛争」とする。クリミア半島では親ロシア派によるクリミア自治共和国が事実上ウクライナから分離した形になっているが、アメリカや日本は承認していない。
第二次世界大戦とウクライナ ウクライナは第二次世界大戦中はソ連の一部として、多くの兵士が徴兵され、独ソ戦で犠牲となった。2019年10月10日の朝日新聞によると、今も戦闘が続くウクライナ東部では、第二次世界大戦で戦死した兵士の遺骨収集がはじまっているという。独ソ戦の最中、1942年のハリコフ作戦で27万人のソ連兵が戦死するか行方不明になった。ドイツ軍は遺体の腐敗で疫病が広がるのを防ぐため、住民に命じて埋めさせたが、その遺骨は戦後、ほとんど放置されてきた。遺骨収集はウクライナ東部紛争で親ロシア派軍、政府軍双方から拒まれて順調には進まなかったが、この春にウクライナに戦闘停止を掲げる新政権が発足したことによって活動再開が期待されている。<朝日新聞 2019年10月10日朝刊による>

停戦とその破綻

 2019年、大統領選挙では現職のポロシェンコが汚職疑惑などから票が伸びず、国民的な知名度の高い、コメディアン出身のゼレンスキーが70%台の得票で当選した。ゼレンスキーはNATO加盟を公約に掲げる一方、東部紛争の解決に乗り出すことを表明していた。2020年7月22日、ゼレンスキー大統領は、親ロシア派勢力が占拠する同国東部の紛争をめぐり、ウクライナ軍、親ロシア派の両勢力が完全停戦を実現することで合意に達したと発表した。これはドイツ(メルケル首相)・フランス(マクロン大統領)の仲介により、ウクライナとロシアに加え、欧州安全保障協力機構(OSCE)の3者協議で決まったものであった。7月27日に発効し、OSCEは停戦監視団を派遣することとなった。
 しかし、紛争が始まった2014年春の翌年2月にもウクライナ、ロシアに加えてドイツ、フランスの4ヵ国首脳が集まり、停戦合意(ミンスク合意)が成立したにもかかわらず戦闘が断続的に続き、すでに死者はこれまでに1万4千人に達している。和平の実効のためには4ヵ国首脳会議の再開が必要だが、その目途はまだ立っていない。<朝日新聞 2020年7月24日朝刊による>

ウクライナ(7) 2022年 ロシア軍の侵攻

2022年2月24日、プーチン大統領のロシアは、ウクライナへの軍事侵攻を開始した。ウクライナはゼレンスキー大統領がウクライナに留まって抵抗を呼びかけている。<2022/3/5 未定稿>

ウクライナ情勢の緊迫

 2022年1月、ウクライナをめぐる米ソ対立は緊迫の度合いを増した。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ国境に陸上部隊を配置して軍事圧力をかけ、アメリカに対してウクライナがNATOに加盟しない確約を求めたが、アメリカ(ブリンケン国務長官)は書面で拒否を回答した。<2022/1/27 新聞各社の報道>
 ウクライナ国内では、ロシア軍の侵攻が近いのではないかという懸念が強まり、国民を動員した防衛態勢の強化を開始した。一方、東部ウクライナの親ロシア勢力も動きを活発にしているという。一部にはクーデタによってウクライナの親西欧政権を倒し、ロシアに後押しされた親ロシア派が権力を握るという事態も警戒された。2019年に国民的な人気で大統領となったゼレンスキーは与党「国民の力」によって汚職の撲滅などを公約していたが、期待されたほどの改革が進まず、また外交では、ウクライナ東部での停戦を模索し、プーチンとの話し合い路線を表明したことで国民の支持を失い、人気は低迷した。

NewS ロシア軍、ウクライナに侵攻

 2022年2月24日、プーチンはついにウクライナ侵攻を実行した。北京の冬季オリンピック閉幕直後というタイミングであり、中国の顔を立てた形となった。アメリカは早くからロシアの侵攻を予測し、警告を発していたが、同時にNATO未加盟国であるウクライナにはアメリカ軍を直接投入することはないと表明していた。プーチンは、これは戦争ではなく、東部ウクライナにおけるロシア系住民をウクライナ政府によるジェノサイド(大量殺害)から守るための「特別軍事行動」であり、非はネオナチ勢力に支配されているウクライナ政府にある、と説明した。しかし、ロシア軍は東部ウクライナだけでなく、南部のクリミナ半島と北部のベラルーシ(親ロシアのルカチェンコ大統領が支配)からも軍隊を侵攻させ、首都キエフを目指すという全面的な軍事行動であり、宣戦布告なき戦争であることはあきらかであった。
 国際社会はプーチン・ロシアの行動を国際法違反、国連憲章違反であるときびしく糾弾し、ただちにロシアに対する経済封鎖に踏み切った。また3月2日、国際連合緊急特別総会もロシアの行動を侵略であるとする非難決議を賛成141カ国、反対5カ国(ロシア、ベラルーシ、北朝鮮、シリア、エリトリア)、棄権35カ国(中国、インドなど)で採択した。国連安保理はロシアが常任理事国であるので拒否権を行使するため、集団安全保障の行動を起こすことは困難になっている。ヨーロッパの集団安全保障機構である欧州安全保障協力機構(OSCE)にも期待が高まっているが、停戦監視業務以上のことはできていない。
ウクライナの抵抗 ロシア軍の侵攻は、ウクライナ軍と武装した市民による抵抗により、各地で停滞し、3月6日現在も首都キエフは陥落しておらず、ゼレンスキー大統領も留まっており、SNSで盛んに抵抗を呼びかけ、国民の圧倒的支持を受けている。そのような中で、2回にわたる停戦交渉が行われたが、ゼレンスキーが前提としての戦闘の停止を訴えたのに対してプーチンは、ウクライナの非武装と中立化、クリミア半島などの分離の承認を条件として引かず、ウクライナ現政権を倒すという狙いを顕わにしている。
 プーチンは侵攻が予定どおり進んでいないためか、ウクライナに対してロシアが核兵器を持っている国であることを忘れるなという意味の脅迫を行ったこと、さらに3月3日には、ロシア軍がザボローニェ原子力発電所を攻撃、占拠したことが報じられたことで国際世論はさらにプーチン・ロシアに対してきびしい論調が出されるようになっている。
 抵抗を続けるゼレンスキー大統領は、EUへの正式加盟を申請、西欧側への傾斜を強めているが、フィンランド、スウェーデン、モルドヴァにも同様な動きが出ており、ロシアの意図に反して、ロシア周辺諸国のロシア離れが明確になっている。<2022/3/5記 途中稿>

ウクライナ、歴史の奪還

地名の見直し ロシアのウクライナ侵略以降、それまでロシア語表記が当たり前だったウクライナの地名を、本来のウクライナ語の表記に改めようという動きがマスコミに一気に起こった。それによって、首都キエフがキーウとなったほかに、主要地名では次のようなものがある。
 東部の大都市ハリコフ → ハルキウ  黒海に面した港オデッサ → オデーサ  ドニェプル川 → ドニプロ川
実はウクライナ人だった  近代のウクライナの歴史がロシア史の一部として語られてきたため、ウクライナ人であったことが忘れられてしまった例に次のような人々がいる。
科学者
イリヤ=メチニコフ(1845-1916) ハルキウ生まれのユダヤ系細菌学者 免疫学を創始し、1908年ノーベル医学・生理学賞受賞
セルマン=ワックスマン(1888-1973) キーウ県生まれのユダヤ系医学者 結核治療の抗生物質ストレプトマイシン発見 1952年ノーベル医学・生理学賞受賞
イゴール=シコルスキー(1889-1972) キーウ生まれ ヘリコプターの実用化に貢献
ジョージ=ガモフ(1904-1968) オデーサ生まれの物理学者(父はロシア人、母がウクライナ人) ビッグバン理論の提唱
セルゲイ=コロリョフ(1907-66) ロケット技術者 1957 スプートニク 1961 ガガーリンを乗せたヴォストークの成功など、ソ連のロケット開発に従事。国の最高機密であったので名前は公表されなかった。
文学者
ニコライ=ゴーゴリ(1809-52) ウクライナ名ミコーラ=ホーホリ 由緒あるウクライナ・コサックの家系出身 ペテルブルクに出てプーシキンと知りあい『狂人日記』などでロシア・リアリズム文学の旗手となったが、戯曲『検察官』などでツァーリズムを批判したとされロシアを出国。彼はロシア語で書き、ロシアの文豪とされるが、ウクライナではウクライナ人として見直されている。ゴーゴリ原作のコサック英雄を描く『隊長ブーリバ(タラス・ブーリバ)』がロシアで映画化された際、ブーリバがロシア人として描かれたことにウクライナで批判が起こった。
タラス=シェフチェンコ(1814-61) ウクライナの民謡を採集し国民詩人と言われた。彼は詩作をウクライナ語で行った。
音楽家
ウラジミール=ホロヴィッツ(1903-89)、スヴィヤトスラフ=リヒテル(1915-97) はいずれも20世紀の代表的ピアニスト。かつては「ソ連を代表する」と表現されていた。その他、エミール=ギレリス、ナタン=ミルシテイン、ダヴィド=オイストラフもオデッサ出身のユダヤ人。
政治家
レオン=トロツキー(1879-1940) 本名はブロンシュテイン、南ウクライナのヘルソンのユダヤ人農園に生まれ、オデーサの実業学校に学んだ。1896年にロシアの革命運動に参加、1917年からはボリシェヴィキに入党し、レーニンの後継者と目される指導者となったがスターリンとの争いに敗れ暗殺された。
ニキータ=フルシチョフ(1894-1971)はウクライナ人で、ウクライナ共産党第一書記として頭角を現した。スターリン批判で世界の注目を浴び、キューバ危機ではケネディと渡り合った。
レオニード=ブレジネフ(1906-82)はロシア人だがウクライナで生まれ育ち、モスクワで活動した。フルシチョフを失脚させ、70年代を中心に権力をふるった。
<黒川前掲書 p.164-/『ウクライナを知るための65章』2022 明石書店 などによる>