スウェーデン
北欧諸国の一つでスカンジナヴィア半島東側にノルマン人が建設した国。14世紀にカルマル同盟に属した後、16世紀に独立、17世紀に全盛期となってバルト海全域を支配した。18世紀にロシアとの北方戦争に敗れて領土を縮小、19世紀初めにはナポレオン戦争に敗れて大国の地位を退き、中立政策を採るようになった。
スウェーデン GoogleMap
16世紀にバーサ朝が成立して独立、プロテスタント国となり、フィンランドを領有する。17世紀に国王グスタフ=アドルフが出て強国となり、三十年戦争に介入してウェストファリア条約でバルト海全域の支配する大国の地位を得て「バルト帝国」として全盛期を迎えた。
しかし、18世紀には東方に成長したロシアと北方戦争を戦い、敗れて領土を失う。さらにナポレオン戦争の時期にロシアと戦ってフィンランドを失い、19世紀のスウェーデンは、小国に転化していった。ナポレオンの部将であったベルナドッテ将軍を国王後継者として迎えるも、ナポレオン戦争後はイギリス、プロイセン、ロシアなどのヨーロッパの列強との抗争を避け、中立政策を採るようになった。
20世紀の2度の世界大戦でも、中立の原則は維持されたが、ナチス=ドイツ・ソ連の脅威には常にさらされることとなった。国際連盟・国際連合にはいずれも参加したが、冷戦期にはNATOへの加盟を見送った。1995年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟したが、ユーロは導入していない。
- (1)スウェーデンの建国
- (2)バルト帝国に発展
- (3)北方戦争とナポレオン戦争
- (4)20世紀のスウェーデン
- (5)現代のスウェーデン
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スウェーデン (1)建国
スカンディナヴィア東部に10世紀頃、ノルマン人がスウェーデンを建国。キリスト教を受容し、14世紀末にはカルマル同盟に加わり実質的にデンマークに支配されたが、16世紀に独立した。
13世紀には法整備が進み、首都ストックホルムも建設された。しかし、14世紀には黒死病の流行が北欧三国に及び、そのために生産力が減少し、王権をめぐっても争いが生じ、貴族の対立も加わり混乱が続いた。
カルマル同盟とスウェーデン
そのような中でデンマークのマルグレーテの主導のもとで1397年に形成されたカルマル同盟に加わり、実質的なデンマークの支配を受けることになった。独立とヴァーサ王朝
15世紀に入り、次第にカルマル同盟からの分離独立を要求するようになったが、本国デンマーク側の軍隊によって抑えられた。独立の願いを実現したのは1523年6月6日のグスタフ=ヴァーサの反乱からだった。農民を組織し、巧みな戦術で独立を達成したグスタフ=ヴァーサは同年、国王に推戴され、ヴァーサ王朝が成立した。Episode バーサ・ロッペット
1523年冬、スウェーデンのデンマークからの独立運動を起こすとしたグスタフ=ヴァーサ(バーサ。以下同じ)は、モーラの農民たちに決起を促したが、衆議が一決しない。絶望したヴァーサはがノルウェーへの亡命に向かった。ようやく決起を決議した農民は急ぎ2人の使者をスキーで追わせた。使者がヴァーサに追いつくまでスキーで走った距離が約82キロだった。これを記念して1922年から始まったのがスキー大会がバーサ・ロッペット(競走)で、毎年3月初旬の日曜日、モーラとセーレン間の約82キロで行われている。外国からの参加者もあり、一大行事となっている。今までの記録は4時間45分だそうだ。旭川ではそのまま借りてバーサスキー大会が催されている。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.35>スウェーデン (2)バルト帝国に発展
17世紀のグスタフ=アドルフの時代に全盛期となってバルト帝国と言われ、三十年戦争には新教側の中心として介入した。
バーサ王朝のもとでスウェーデンはバルト海の覇権をめぐってロシア、ポーランド、デンマークと争うようになった。ロシアのイヴァン4世とは、ポーランドと結んでリヴォニア戦争(1558~1583)を戦い、そのバルト海進出を阻止した。それは、ロシアのギリシア正教に対するスウェーデンのプロテスタントという宗教戦争でもあった。またカトリック国であるポーランドとの関係も良好ではなかった。ころからスウェーデンは鉄と銅の輸出で国力を充実させ、軍備を整え、17世紀前半にはグスタフ=アドルフ王のもと絶対王政を作り上げ、北欧の強国に成長していた。
三十年戦争とスウェーデン
1618年にドイツで三十年戦争が始まり、戦争が長期化して新教側が押されてくると、カトリック勢力のドイツ皇帝(ハプスブルク家神聖ローマ皇帝)によるドイツ支配と、同じカトリック国のポーランドが結び、バルト海でのスウェーデンの優位が崩れる恐れが出るので、グスタフ=アドルフは新教側の救援を決意し、1630年に介入しドイツに侵攻した。各地で奮戦したが、グスタフ=アドルフは1632年のリュッツェンの戦いで戦死。スウェーデン軍はドイツ国内に力を温存させた。1648年のウェストファリア条約ではポンメルンなど北ドイツに領土認められた。こうして、三十年戦争後は、スウェーデンは「バルト帝国」といわれるヨーロッパの強国となった。その前年の1647年には大西洋の黒人奴隷貿易に参入し、特許会社としてギニア会社を創設している。バルト帝国 17世紀後半
名君といわれたグスタフ=アドルフの死後は娘クリスティナが宰相オクセンシェルナの補佐で政治を執った。この間、ポーランド王国に侵攻するなどバルト海沿岸を制圧し、バルト帝国と言われる繁栄期を迎えた。バルト帝国を支えた豊富な鉄資源
(引用)現代のスウェーデン工業は、当然のことながら、過去の遺産を基礎にしている。なかでも質の高さで有名なスウェーデン鋼が重要である。鉄の製造は13世紀まで遡ることもできる。豊富な鉄と銅がスウェーデンの財政基盤を整備し、そのおかげで17世紀には「バルト海の帝王」にまで成長できたのである。18世紀にスウェーデンの鉄製造業者が欧州市場で独占的地位を獲得できたのは鉄鉱石の質の高さであった。例えば、イングランドが輸入した鉄の80%はスウェーデンからであったと言われている。こうした市場競争力は18世紀末の数十年まで続いた。国家は生産制限で鉄価格の維持に努め、膨大な収益を上げることができたとS.グロウバートは分析している。そして鉄素材の良さと技術が結合してボール・ベアリングや精密機械などが世界的名声を博することになったのである。<岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』1991 岩波新書 p.30>
新教国のカトリック女王 クリスティナ
17世紀後半のスウェーデンの女王クリスティナは、文化人としても知られ、デカルトとも親交があった。グスタフ=アドルフの娘でスウェーデン王となった彼女は、名宰相といわれたオクセンシェルナを次第に遠ざけていく。(引用)しかも彼女は財政にほとんど無関心だった。例えば彼女は貴族の数を倍にした。このため国土の三分の二が貴族たちの手に移った。農民はその貴族に対する重税の負担に喘がねばならなかった。・・・国民の不平不満は高まった。こうしたなかで彼女は華やかな宮廷生活を送った。彼女は才女だった。ラテン語、フランス語、オランダ語などを話し、デカルトを始めとしてフランス、オランダの文化人をサロンに集めた。・・・<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.53>彼女は生涯結婚せず、「理由は言えない」と言い続け、従兄弟のカール=グスタフを後継者に指名し退位した。退位の理由は彼女がカトリック信仰を強く持っていたためだろうとされている。彼女は退位後ローマに向かい、インスブルックでカトリックに帰依してローマで死んだ。・・・
詳しくは、下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ バロック精神史の一肖像』1977 中公文庫に収録(1991) を参照。クリスティナの墓碑はローマのサンピエトロ聖堂内に、ミケランジェロのピエタ像の隣に置かれている。
スウェーデン (3)北方戦争とナポレオン戦争
18世紀初頭、北方戦争でロシアに敗れるも19世紀まで北欧の大国として続く。
カール12世と北方戦争
しかしそれに対して、デンマーク・ポーランドは警戒を強め、またロシア(ロマノフ朝)のピョートル1世もバルト海方面に進出を狙って、対抗心を燃やしていった。若きスウェーデン王カール12世はそれらの周辺国との戦争に突入、1700年に北方戦争(大北方戦争)となった。カール12世は緒戦においてナルヴァの戦いに勝利し、ロシアに深く侵攻したが、戦争の長期化は次第にスウェーデン軍を不利に導き、その間、ロシアは態勢を整えていった。カール12世はウクライナに進出し、その地のコサックの棟梁マゼッパをロシア側から離反させ、共同してロシアを攻略しようと1709年のポルタヴァの戦いを戦ったが、敗北を喫した。オスマン帝国に亡命したカール12世は再起を期し、オスマン帝国とロシアの戦争に期待したが、1711年に講和が成立したため、不首尾に終わった。さらにカール12世はロシアへの反撃を企てたが、1718年に戦死し、スウェーデンは敗北に終わった。1721年にスウェーデン・ロシアはニスタットの和約で講和、スウェーデンは急速に大国の地位から後退することとなった。かわってロシアが「バルト海の覇者」として東ヨーロッパの大国として有力となっていく。
Episode じゃがいも戦争
スウェーデンは、1756~63年の七年戦争ではフランス側に立ってプロイセンと戦った。得るところはなかったが、このとき兵士たちがジャガイモを持ち帰り(このためこの戦争はじゃがいも(馬鈴薯)戦争とも言われた)、その栽培が始まった。ジャガイモは北欧の風土に合ったため、瞬く間に広がり、スウェーデンの主食は現在はジャガイモになっている。この頃スウェーデンではリンネが植物の分類法を確立している。
アメリカ独立戦争での武装中立同盟
1771年即位したグスタフ3世は、王権強化を図ると共に文化の保護にもあたり、人気の高い王であった。また商業を積極的に保護し、スウェーデンの商人は海外貿易に侵出、イギリスの北米植民地もさかんに交易を行った。1775年、アメリカ独立戦争が始まると、アメリカの貿易に打撃を与えようとしてイギリスは海上を封鎖した。それに対してスウェーデンは貿易船の活動を共同して武装して保護しようとロシアに呼びかけた。それを受けたロシアのエカチェリーナ2世は1780年に武装中立同盟の結成を呼びかけ、ロシア・スウェーデンの他、デンマーク、プロイセン、ポルトガルが加盟して成立した。それによってアメリカとの貿易を続けたので、イギリスとの関係は悪化した。アメリカ独立が承認(1783年)された後、グスタフ3世は北方戦争でロシア領とされたフィンランドの奪回をめざしてロシアと戦い、さらにロシアを支援するデンマーク軍の干渉を撃退するなど、かつてのグスタフ=アドルフ時代の栄光を再現したが、その絶対王政的な政治は貴族や商業資本家を主体とした議会から次第に支持を失っていった。
Episode 国王の仮面舞踏会殺人事件
1792年3月16日夜、グスタフ3世はオペラ座で開かれた仮面舞踏会で銃撃されるという事件が起こった。暗殺の危険があることは事前に告げられていたが、国王は気にすることなく、仮装してワルツの舞踏の輪に入った。間もなく彼は黒い仮面の数人に囲まれ、銃声が起こった。国王は背中から撃たれて重傷だった。致命傷ではなかったが、二週間後に余病を併発して死んだ。犯人はアンカーストレムという元近衛士官で、個人的に国王に恨みを抱いていたというが、その黒幕は不明のままだった。グスタフ3世をその人柄と治世下のきらびやかな文化、芸術の活気によって高く評価する人は多い。しかし他方ではその文化、芸術愛好の浅薄さと自己過信をもってこれを割り引いて考える人も多い。この暗殺事件は、当時の西欧各国にも大きな衝撃を与え、ヴェルディの『仮面舞踏会』(1859年)はこの事件をオペラ化したものである。<武田龍夫『物語り北欧の歴史』1993 中公新書 p.83-84>
ナポレオン戦争
18世紀末に始まったナポレオン戦争ではイギリスと結び大陸封鎖令に従わなかったので、フランスに従ったロシアとの間で戦争となり、大敗してフィンランドの全土を失った。1810年、ヴァーサ王朝のカール13世に継嗣がないため、議会はナポレオンの将軍ベルナドッテを皇太子として迎えることに決定した。ところがベルナドッテは国益を守るためナポレオンと対立するに至り、1813年の諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)に参加し、ナポレオン軍を破った。その結果、1814年にはデンマークはスウェーデンとのキール条約で、ノルウェーを割譲した。ノルウェーは反発して同1814年5月17日に独立を宣言したが、スウェーデンは軍隊を送って鎮圧し、一定の自治を認めた上でスウェーデン王を国王とする同君連合とした。
ベルナドッテ朝の発足
1818年にはベルナドッテが国王(カール14世)としてベルナドッテ朝(現在のスウェーデン王室)を開くこととなった。スウェーデンでは身分制議会が続いていたが、1866年に二院制の議会制をとることとなり、近代化に進み始めた。ダイナマイトを発明し、実業者として成功し、後にノーベル賞を創始するノーベルが活躍したのがこの時代である。中立宣言
1834年、国王カール14世は、「中立」を宣言した。かつてバルト帝国と言われる強国であったスウェーデンが、ナポレオン戦争などの度重なる戦争で、領土を失い「小国」となったことを自覚し、国際情勢にどう関わるべきか考えた結果、今後はヨーロッパの戦争に関与しないという中立政策を選んだのだった。ただしこの政策は憲法(政体法)や条約に基づいたものではなく、国王が一方的に宣言したものであった。そのため、実際には国際情勢の変化によって「中立」は大きくぶれることになった。しかし、スウェーデンの「中立政策」は表だっては国是として守られ、時期的なブレや、時の政権による秘密外交があったとしても、2022年まで200年近くにわたって守られてきた。<朝日新聞 2022/5/20朝刊 による>スウェーデン(4) 20世紀のスウェーデン
第一次、第二次世界大戦でいずれも厳正な中立を守り戦争に加わらなかった。社会民主主義の政策を継続し、高度な社会福祉国家を建設した。外交ではEUには加盟したが、ユーロは使用せず、安全保障ではNATOには参加しなかった。
中立政策を守る
第一次世界大戦でも中立を守り、戦後のナチスドイツの台頭に対しては積極的な軍備増強による防衛にあたった。1940年には厳正な武装中立を声明、大戦中はドイツ、イギリス双方から協力要請の圧力がかかったが、中立政策を維持した。ただし、ノルウェーを占領したナチス・ドイツ軍がソ連に向かうために通過することは認め、一方でフィンランド=ソ連戦争ではフィンランドに義勇兵を派遣するなど、現実的な対応をしている。パリを守ったスウェーデン領事
第二次世界大戦でドイツ軍はフランスを制圧、パリを占領した。それに対してパリ市民は地下にレジスタンス組織を作り抵抗を続けた。ヒトラー・ドイツの敗色が濃厚となった1944年8月、ついにレジスタンス部隊はパリでの市街戦に蜂起した。ヒトラーは抵抗を根絶やしにするためドイツ防衛司令官コルティッツ将軍にパリ全市の破壊を命じる。そのときレジスタンス側とコルティッツの間で停戦を持ちかけたのは中立国のスウェーデンのパリ駐在領事ノルドリックだった。ノルドリックは単身コルティッツ司令官に面会し、パリ破壊を思いとどまらせようとした。結局その努力が実を結び、コルティッツはパリ破壊命令を中止、パリの街、市民生活、そして数々の歴史的建物は守られることになった。ノルドリック領事はパリを救った男として、映画「パリは燃えているか」や「パリよ、永遠に」で主人公として描かれている。この外交官の個人的な努力も賞賛されることであるが、何よりもスウェーデンが大戦中にも中立政策を採っていたからこそ可能だったことを忘れるべきではないだろう。第二次世界大戦後のスウェーデン
第二次世界大戦後も基本的に中立政策を維持し、NATOにも加盟しなかった。国連事務総長でコンゴ動乱で遭難したハマーショルドはスウェーデンの人。戦前から戦後に架けて内閣は社会民主主義を掲げる社民党がほぼ一貫して担当し、高度な社会福祉国家を維持している。文化
鉄鉱石と森林という豊かな資源を背景に工業が早くから進み、文化的なレベルも高い。文学では19世紀にストリンドベルイ(『令嬢ジュリー』など)、ラーゲルレーフ(『ニルスの冒険』など)がいる。科学ではアルフレッド=ノーベル(1833~96)が有名。ダイナマイトなど多数の特許で富を築き、1896年にノーベル賞を創設した。Episode スウェーデンの国旗
グスタフ=バーサの指導で独立したスウェーデンは、バルト海の支配権をめぐってデンマークとその後も争った(1563~70年、北欧七年戦争)。バーサの次のエリク王の時、バーサの築いた艦隊を強化し、フィンランド系のクラウス・ホルン提督の指揮で、バルト海でデンマーク海軍を破った。そのとき掲げられた艦隊旗はスウェーデン国旗とされた。水色は湖とバルト海、十字はキリスト教国の意味、黄色は太陽である。北欧の太陽は日本と違い弱々しい。子どもたちは太陽を黄色に描くのである。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.37>スウェーデン(5) 現代のスウェーデン
パルメ政権
1970~80年代の社会民主労働党のパルメ首相は国内政治では現実的な「第三の道」路線を執って経済を安定させ、また国際政治では安全保障、核兵器廃絶などの国連活動でも大きな役割(パルメ委員会)を果たした。O.パルメは1969年、42歳で社民党党首として首相に就任した。彼は物質的生活条件、市民間関係でのより大幅な社会的平等化こそ、社会の民主化を推進してきた社会民主党の目標であると主張して社会民主主義をさらに徹底しようとした。そのため労働者の企業に対する影響力を強めることに力を入れた。それに対してブルジョワ・ブロックは経済的行き詰まりは社民党の政策にあると激しく反発し、パルメ社民党は1976年の選挙で敗れ、いったん下野した。しかしブルジョワ・ブロック連立内閣は原発問題や税制改革問題で足並みがそろわず、1982年10月にパルメ社民党は選挙に勝利して政権に復活した。
パルメ政権は、労働組合の支持を背景に、サッチャー流の新自由主義と古典的なケインズ主義の双方を否定して「第三の道」を提唱、具体的な経済政策として輸出振興と積極的な公共投資、労働との社会契約を通じた経済戦略を立てた。産業では鉄鉱石、木材などの伝統的な輸出品目から技術集約的な最先端技術産業(電子工業製品、通信機器、化学製品、薬品、輸送・運輸機器)へと重心を移した。パルメ政権に対してはブルジョワ・ブロックの抵抗が続いたが、国民は反サッチャー主義を明確にしたパルメ政権を支持し、85年選挙でも勝利した。<岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』1991 岩波新書 p.158-182>
パルメ首相暗殺事件 スウェーデン現職首相のパルメが、1986年2月28日(金)午後11時21分、何者かに銃撃され、死去するという事件が起こった。犯人は逮捕されたものの、その真相はまだ明らかになっていない。
(引用)ストックホルムのメイン・ストリートの一つであるスヴェア・ヴェーゲンにある映画館で妻リスベットと共に週末の映画鑑賞を終え、地下鉄の駅(ヘイ・トーリエット駅)に向かって歩いているとき、悲劇が起きた。夫婦の家は、中世の街並みを今なお伝えているという理由で、人気のある住宅街になっているガムラ・スタンにあった。ヘイ・トーリエット駅から地下鉄に乗れば、ほんの4,5分で自宅に着く。駅に向けてアドルフ・フレドリク教会の横を歩いているときには、いま見てきたばかりの映画「兄弟・モーツァルト」の感想などを話していたに違いない。よもや、それから数日後その教会に埋葬され、永遠の眠りにつくことになるなどとは、夢想だにしなかったろう。教会を過ぎ、スヴェア・ヴェーゲンがツゥネル・ガータン(トンネル通り。この通りの一部はいまはパルメ通り)と交差する地点に差しかかったとき(ここから地下に降りて地下鉄の駅に行く)、ピストルが発射された。二歩前を歩いていたリスベットが、銃声を聞き、振り向いたときには、すでにすべてが終わっていた。
護衛はつけていなかった。パルメは日頃から、仰々しく護衛に取り囲まれることを、ことのほか嫌っていた。ましてプライヴェートな行動に護衛をつけるなどということは、彼の一番嫌いなことだった。「開かれた社会」と民主主義の成熟度に対する絶大なる自信と信頼があった。数多くの警官や秘密警察が仰々しく身辺警護に当り、パトカーや戦車まで動員して政治家の安全を確保するという事態は、「成熟した民主主義国家」には馴染まない。そう考えていたに違いない。その意味で、この悲劇は「開かれた社会」(とそれへの過剰期待)の貴重な代価とも言えるかもしれない。スウェーデン・デモクラシーに信頼を置いていなかったら、真夜中に警護もつけずに街を歩くなどということはなかったであろう。もっと用心深く、多くの権力者がそうするように、護衛に取り囲まれたり、サイレンを響かせて疾走するパトカーに先導させていたであろう。パルメ首相はそういう形で、市民との間に壁を作ることを好まなかったし、市民と権力者の違いをそういう権威主義的な方法で表現することを嫌っていた。国王ですら気軽に街を歩き、声を掛けてくる市民に笑顔で返礼する国である。開かれた社会への信頼と自信が大きかったとしても無理はない。だが、信じられないことが、信じられない場所で、信じられない方法で、発生した。<岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』1991 岩波新書 p.182-184>
EUには加盟したが、ユーロは導入せず
1989年の冷戦終結、91年のソ連崩壊という大きな変動が起こったが、スウェーデンは中立政策を原則的に維持しながらも、西欧への接近を強め、1995年1月1日にはフィンランド、オーストリアと共にヨーロッパ連合(EU)に加盟した。しかし、EU共通通貨のユーロについては2003年の国民投票で使用を否決し、現在も独自の通貨クローナを使用している。日朝間のストックホルム合意
中立を外交方針として掲げるスウェーデンは、対立する国家間の調停を行う上で、意義のある存在であった。拉致問題で行き詰まっていた日本と北朝鮮両国が、その解決に向けた話し合いを行ったのもスウェーデンを介してのことであり、その成果は2014年5月のストックホルム合意となって現れた。この合意で北朝鮮は日本人拉致被害者や特定失踪者に対する調査を約束し、日本側も制裁の一部解除を表明した。しかし、2016年2月、北朝鮮が核実験を開始、弾道ミサイルの発射などを行った事に対し、日本政府は制裁強化を決めたため、合意は事実上放棄された。こうして拉致問題解決は再び暗礁に乗り上げたが、スウェーデンが中立国としての立場の生かして日朝間の問題解決に動いたことは重要である。徴兵制復活へ
2000年代に入り、ロシア連邦がプーチン政権の下で大国主義の傾向を強めたことは、バルト海を挟んでロシアの飛地カリーニングラードと対峙するスウェーデンは警戒を強めることとなった。2014年、プーチン政権がクリミア併合を強行したことから、スウェーデンは徴兵制を復活させる判断をした。(引用)(2017.3.2)スウェーデンのフルトクビスト国防相は2日、7年前に廃止した同国の徴兵制を2018年1月から復活させる方針を明らかにした。兵士に志願する若者が減るなか、近隣の軍事大国であるロシアの武力外交をにらみ軍事力を強化する。
AFP通信などによると、1999年以降に生まれた18歳の男女の国民からアンケートの回答に基づいて1万3千人を選び、その中から毎年4千人に11カ月間の兵役を課す。女性の徴兵は初めて。
同国の徴兵制は1901年から100年以上続いたが、2010年7月に正式に廃止された。しかし、賃金の低い兵士に志願する若者が減り、年4千人の要員のうち約2500人しか集められていなかつだ。志願兵は今後も受け付けるという。
フルトクビスト氏は同通信とのインタビューで2014年のロシアのクリミア併合を挙げ、「彼らは我々のすぐ近くで、より多くの演習を行っている」と危機感をあらわにした。(ロンドン=渡辺志保)<朝日新聞 2017.3.3 朝刊国際面>
ロシアのウクライナ侵攻
スウェーデンのアンデション首相は2022年5月16日、北大西洋条約機構(NATO)に加盟申請することを正式に表明した。これによってスウェーデンは19世紀前半から外交方針に据えてきた軍事的非同盟という中立の立場から歴史的転換を遂げることとなった。それに先立ち、首相は与党社会民主労働党の会合に出席した。同党は伝統的にNATO加盟に反対していたが、2022年2月24日のロシア連邦・プーチン大統領によるウクライナ侵攻を受けて加盟容認に転換した。ただし同党は声明で、加盟時には「NATO」の恒久的基地を置かず、核兵器も配備しないことを宣言するよう求めた。加盟申請は隣国フィンランドと同時に行われることが想定されており、フィンランド政府も15日に加盟申請を決定した。ロシアのプーチン大統領は、16日、モスクワであった会議で「フィンランド・スウェーデン両国との間に問題はない。両国が(NATOに)加盟してもロシアへの脅威にはならない」としつつ、「(両国で)軍事インフラが拡大すれば対抗策をとる」と牽制した。<朝日新聞ほか各紙報道 2022.5.17>
高い軍事力 スウェーデンはナポレオン戦争に巻き込まれて以来、1814年から他国との戦火を避け、1834年には国王が中立を宣言した。しかし、非武装中立ではなく、武装中立の立場であり、しかも軍事力には高いものを有しているとみられている。ソ連崩壊後は1995年にEUに加盟し、90年代にはNATOには加盟していないものの、ともにバルカン半島に派兵したほか、2001年からアフガニスタンにも派兵している(2021年撤退)。航空機製造のサーブといった軍事産業も抱えており、軍事力には定評がある。2014年のロシアのクリミア併合を受け、徴兵制を17年に復活、バルト海をはさんでロシアの飛地カリーニングラードと向かいあうゴットランド島にも常駐軍を再配備した。ロシアは対抗してこの5月、カリーニングラードに核兵器搭載可能なミサイル発射装置を配置し、発射訓練を実施した。
スウェーデンは2017年、核兵器禁止条約の採択には賛成したが、抑止力を考慮に入れる必要があるとして署名や批准は見送っている。すでに協力関係にあったNATOに配慮したとみられる。<朝日新聞 2022.5.17 ヘルシンキ特派員疋田多揚記事を要約>
NewS NATO加盟
スウェーデンはロシアのウクライナ侵攻という事態をうけて、2022年5月に19世紀前半から続けていた中立政策、軍事的非同盟政策を転換させ、北大西洋条約機構(NATO)加盟の申請に踏み切った。2024年2月26日、加盟国審議で最後のハンガリー議会が可決したため、スウェーデンの加盟が決まった。ロシアのウクライナ侵攻後のNATO加盟は、2023年4月の同じ北欧のフィンランドの31番目に続き、32番目となる。またスウェーデンの加盟によってバルト海沿岸は、ロシア領のカリーニン地方を除き、NATO加盟国が占めることとなり、北欧地域のみならず、ヨーロッパ全域の安全保障に大きな影響を及ぼすことが考えられ、ロシアは強く反発している。 → NHK ニュース 2024/2/26
200年にわたって軍事的中立を守ってきたスウェーデンが、軍事同盟の典型であるNATOに加入したことは、どのような意味があるのだろうか。ウクライナ戦争がさらに広がり、NATOとロシアの全面対決となって核兵器の使用の危険が増すのか、それともウクライナ和平の動きとロシアの体制変化が現れるのか、まだその予測は困難であるが、何か世界史的な転換の予兆であるのかもしれない。<2024/3/6記>