バタヴィア
ジャワ島西部の港市として発展していたが、1619年、オランダ東インド会社が商館を設けバタヴィアと称した。その後もオランダ領東インドによる植民地支配の拠点として続き、太平洋戦争中に日本軍が侵攻、オ段だが撤退したことにより、1943年にジャカルタに改称した。現在のインドネシア共和国の首都ジャカルタ。
オランダ(ネーデルラント連邦共和国がジャワ島植民地支配の拠点とした都市で、現在のインドネシアの首都ジャカルタ。ジャワ島の西部にある商港の一つでスンダ=カラパ、またはカラパと言われていた。日本では江戸時代には咬𠺕吧(カラパ)と表記した。はじめバンテン王国のジャヤカルタ(略称ジャカルタ)といわれていたが、その地を支配したオランダが1619年にバタヴィアと改名しオランダ東インド会社の東インド総督がオランダのアジア貿易を管理する拠点とした。バタヴィアとは、オランダのライン川下流域にローマ時代に住んでいたゲルマン人のバタヴィ族の名にちなんだとされている。東インド総督クーンは、バタヴィアを要塞化してイギリスの攻撃を撃退し、ジャワ島におけるオランダの優位を確立、また現地のバンテン王国とマタラム王国の保護国化を進めた。 → オランダ領東インド
1740年7月には華僑の暴動が起こった。これは当時増加した華僑の多くが下層民として不穏な動きが増大したため、会社当局が彼らをセイロンやケープ植民地に移住させようとしたことに対する反発として起こった。当局は暴動を呱々した華僑を捕らえ、数千単位で虐殺し、植民史上、「バタヴィアの狂暴」といわれる汚点となっている。
※オランダは、フランス革命の時期の1795~1806年、バタヴィア共和国と称したが、これはジャワ島のバタヴィアのことではなく、ローマ時代の部族名バタヴィーによる。
Episode ジャガタラお春
鎖国を進める江戸幕府は日本人の海外渡航と外国に渡った日本人の帰国を禁止した。1639年、いわゆる最後の鎖国令が出された年、オランダ人・イギリス人の妻子30余名が当時バタヴィアと言われたジャカルタに追放された。当時ジャカルタは日本ではジャガタラと言われていたので、ジャガタラ追放と言われた。その中に、長崎の筑後町にいた15歳の可憐な混血の娘、お春もいた。お春は母や姉と一緒にバタヴィアに送られたが、のちにオランダ東インド会社のシモンセンという人と幸福な結婚をして4男3女をもうけ、73歳の長寿を全うした。お春は「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや」と結ぶ「ジャガタラ文」で有名になり、「ジャガタラお春」と言われているが、この手紙は後世の文人の偽作であるという。またオランダ商館長ナイエンローデと平戸の夫人のあいだに生まれたコルネリヤ姉妹のように、父の死後、生母から引き離されてジャカルタに送られた哀話もある。ジャカルタの文書館には日本人の結婚登録簿が113名分、残されているという。<原田伴彦『長崎』1964 中公新書 p.56-59>バタヴィアの反植民地抵抗
オランダ東インド会社が支配していたバタヴィアでは、18世紀に何度かオランダに対する反乱が起きている。1721年にはジャワ人が蜂起してオランダ人を皆殺しにする計画があるとの噂が流れ、その首謀者としてドイツ系の混血の老人ピーテル=エルベルフェルトが逮捕され、拷問の上自白したとして処刑され、その頭蓋骨は見せしめのために壁に塗り込められてさらされたという。1740年7月には華僑の暴動が起こった。これは当時増加した華僑の多くが下層民として不穏な動きが増大したため、会社当局が彼らをセイロンやケープ植民地に移住させようとしたことに対する反発として起こった。当局は暴動を呱々した華僑を捕らえ、数千単位で虐殺し、植民史上、「バタヴィアの狂暴」といわれる汚点となっている。
Episode 塗り込められた首
1721年のバタヴィアでの謀反事件では、オランダの当局は首謀者エルベルフェルトらを処刑し、彼らの肉塊を見せしめのために辻々にさらに、頭は野鳥のつつくにまかせ、のみならずエルベルフェルトの家を完全に壊してその跡地に石の記念碑を建て、その頂上に彼の頭蓋骨を塗り込め、オランダ語とジャワ語で「処刑された国賊ピーテル=エルベルフェルトに対する憎しみを記念して、現在、またはいかなる日にも、ここに家を建てたり、草木を植えたりすることを禁じる。バタヴィアにて1722年4月14日」と記した。昭和7年にジャカルタを訪れた詩人金子光晴はこの首を見た感想を散文詩「エルヴェルフェルトの首」に残している。(引用)狡智と武器をもって和蘭(オランダ)政府は、マタラム王朝を追ひつめた。彼等は土民を奴隷として、ながい強制労働に疲憊させた。笞と牢獄の脅しで、彼等土民の最後の一滴の血までをすすった。三百年の統治のあひだに、爪哇(ジャワ)は和蘭の富の天国となったが、土民たちの心も、からだも、みわたすかぎり荒廃した。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.193 引用の金子光晴の詩の一部>この首の碑は野蛮すぎるとして撤去されたが、近年、もとの場所に再建され、観光名所となっているという。
ジャカルタ
バタヴィアは1799年の東インド会社解散後は、オランダ領東インドの行政の中心地となった。1942年、日本軍が侵攻し、オランダが撤退したことにより、1943年にジャカルタに戻された。現在のジャカルタはインドネシアの首都で、政治・経済の中心都市として繁栄している。※オランダは、フランス革命の時期の1795~1806年、バタヴィア共和国と称したが、これはジャワ島のバタヴィアのことではなく、ローマ時代の部族名バタヴィーによる。